1,872万kW/2,829万kW (07/04 22:30)
66%
■バックナンバー
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
https://www.sns.ochatt.jp/blog/blog.php?key=1190793
2016年02月07日(日) 

   スポーツ選手による違法行為が問題になっています。毎日マスコミが持てはやしています。何故それがそんなに大きいニュースになるのか、私には判りません。

 

   スポーツ選手による事件は覚醒剤のみならず、賭博、八百長、集団レイプ、わいせつ行為、ドーピングなど頻繁に起こっています。若いころの記憶でも運動に熱心な人達にはあまり勉強しないのが多く、授業中も居眠りばかりしていました.

 

   データを取ったわけではありませんが、一般人に比べて犯罪を犯す比率が高いような印象を持っています。有名人故に余計に目につくだけかも知れません。勿論、健康な精神と健康な肉体の両方をもちあわせているアスリートも沢山知ってはいますが。

 

   例に出して悪いですが、ダーイッシュ(非イスラム教徒からなるIS国過激集団)も肉体的には皆健康なのだが、精神的には不健康な不満分子集団だろうと思っています。

 

   健全な精神は健全な肉体に宿るのが望ましい(なかなかそうは行かないが)…と聞かされていたので、そのようなものと思い込んでいました。勿論両者を兼ね備えた人達も結構いますが。

 

   「健全な精神は健全な肉体に宿る」なる文に対してネットにはいろいろ記載されていますね。

① 本来は「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るように望むべきだ」

 

② もともとは古代ローマの詩人が作品の中で「健全な肉体の中に健全な精神が宿ってほしいものだ(、でも実際は違くね?)」と述べたのが起源とされる。

 

③ 「ユウェナリス( Juvenalis 60-136 )は若者が体を鍛えるだけで勉強しないことを嘆き、『健全な肉体には健全な精神も!』(肉体だけ鍛えてもダメ!)といった」

 

④ ユウェナリスは、金持ちになること、地位を得ること、才能をのぞむこと、栄光、長生き、美貌、いずれも願うべきでない、これらはいずれ身の破滅をもたらすから。もし願うとしたら「心身ともに健康であること」ぐらいにしておきなさい。その程度を願うのなら不幸になることもない。大きなことを願うべきでない。ということを詩にしたとのことです。

 

   同じ源から引用されているようです。しかしそれぞれ若干ニュアンスは異なるますね。しかし肉体を鍛えれば精神も健全になる…との解釈はあまり支持されていないようです。私は肉体は健康ではありませんが、精神はまあ健全だろう…と自分では思っています。
  

   無意味で不愉快な記事はあまり頻繁に出さないでほしいですね。もっと大事な報道するべきことが他にも沢山あるだろうに。

 

.


閲覧数1,880 カテゴリ日記 コメント7 投稿日時2016/02/07 09:57
公開範囲外部公開
コメント(7)
時系列表示返信表示日付順
  • 2016/02/08 12:21
    MIYUさん
    いま某国から脱国してきた日本人妻の手記を読んでいますがかの国の「公開処刑」を想起しました。

     憧れの人がふとしたことから関わってしまう誘惑が」どれほどのダメージになるかを宣伝しているんだろうと解釈していますが・・・私も視ませんね。

     健全なる・・・なることわざは私にとっては「体調不調だとなかなか機嫌よくできない」「ストイックな鍛錬は心をも強くしてくれる」

     程度のことだと思っています。

     障がいがあっても病気でも周りを照らすほどに明るい人を私は知っているし

     五体満足 これといって病気もないのに不機嫌そうに当たり散らしたり不平たらたらで生きている残念な人がいるのも知っています。
    次項有
  • 2016/02/08 17:29
    鉛筆コッチさん
    > MIYUさん

       お陰様で気づきました、鍛錬に2種類あることを。

       試合に勝ちたいがために部長に怒鳴られながらやる練習と、心を鍛えるために自ら課した目的に向かって自ら修行として行う鍛錬とがあるのですね。

       後者で鍛えたスポーツマンは上記したような違法行為に染まることはないでしょうね。

       登山、特に単独行は後者に近いようにも思いますが、私は喫煙の悪習から抜け出せずに身体を壊してしまいました。鍛錬不足? 登山に楽しみも期待していましたので…。山の頂上での一服の旨かったこと…。

    .
    次項有
  • 2016/02/08 18:06
    MIYUさん
      頂上の一服の経験はありませんが頂上のビールは50代の頃はやっていたと思います。
     飲酒運転の規制が厳しくなったこと(何時間もかけて汗をかきながら下山すれば乾杯ビールくらいはは跡形もなしとは思いますが) メンバーが歳をとって飲まなければなかったかもしれない事故を避けるためいつしか自粛するようになりました。

     快楽好きであればあるだけストイックさに憧れる気持ちもひとしお

    そやな・・・と納得しています。

     あの時頂上ビールの誘惑に負けなければ・・・と後悔することは多分もう無いでしょう。

     いい年してあるいは女だてらにそんなところに行かなければ・・・という後悔をすることにはなるかもしれませんが。

     やってみなきゃ見えない景色もあるしと友人の勧告を振り切って遊んでいます。

     覚せい剤でタレント生命を絶たれたひとがいま更生に励みつつ覚せい剤の恐ろしさをアピールする活動をしているそうで社会的認知度が高(かった)人の活動にはほかの人以上の説得力があるかもしれません。

     そもそもお金もない老女に覚せい剤を奨めても何のメリットもないので誘惑そのものがないのですから私が彼より理性的な人間だなんて自慢するつもりはありませんしアホだと軽蔑する気もありません。

     でも彼につけ入られる心の隙があったことだけは間違いないですね。(私にもココロの麻酔を欲した時期はありました)

     

     
    次項有
  • 2016/02/08 22:41
    鉛筆コッチさん
    > MIYUさん

       槍ヶ岳に初登頂した播隆上人はいざ知らず、一般的には登山には楽しみを求めているのでしょうね。美しい景色を眺め、計画をやり遂げることを楽しみ、頂上での一服やビールを楽しみ、私の場合は孤独感を、MIYUさんは一緒登った山仲間とのふれ合いを楽しむ…。

       「快楽好きであればあるだけストイックさに憧れる気持ち」…ってよく判りませんが、登山、特に一人で登る場合、へばってもう計画を中止して降りようか…という怠け心に打ち勝って登り続ける、修道僧的な面もあります。

       理性の問題ではなく、自己抑制と自己コントロールの能力だろうと思います。その鍛錬の有無で差が出てくるのではないでしょうか。女性の方が男性よりその能力に長けているように私は思います。

    次項有
  • 2016/02/10 14:57
    ヒッチさん
    精神も肉体である「脳」の作用だと思います。肉体を離れた精神など無いと思います。ピントが外れていたら、ご容赦下さい。
    次項有
  • 2016/02/10 22:25
    鉛筆コッチさん
    > kata0133さん

       精神も一種の神経作用ですから、肉体を離れては存在し得ません。

       問題あるが安直な言い方をすれば、スポーツマンは首から下を鍛錬します。首から上にある(と思われる)理性や精神の鍛錬はともすればお留守になりがちのように思います。

       両者のバランスが重要なのではないでしょうか。

    .
    次項有
  • 2016/02/10 22:44
    ヒッチさん
    > コッチさん
    それは、同感です。
    次項有
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
コッチさん
[一言]
■この日はどんな日
ほかの[ 02月07日 ]のブログは、
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み