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2010年07月01日(木) 
   蜘蛛の糸は鋼鉄より強い(5倍)…のだそうです。芥川龍之介もそれを利用してお話を書いていますね。(下記)

   鋼鉄より強い繊維としては先日地球に帰還した「はやぶさ」のカプセルに使われた炭素繊維や、防弾チョッキに使われるケブラーなどがあります。

「はやぶさ」では大気突入の時に3000度以上に達する高温に耐えました。これは炭素繊維の耐熱性が高いこと以外に、炭素繊維に複合されたフェノール樹脂から分解ガスが熱を奪うこも利用されていましたが。この材料はロケットエンジンの噴射口にも使用されています。

   私の会社ではスラストリバーサ カスケードという、ジェット機が着陸してタイヤによるブレーキをかける前にスピードを下げておくための、エンジンの燃焼ガスを前方に向かって噴射させる、炭素繊維複合樹脂で作ったカスケードで世界の90%以上のシェアーを誇っています。昔はアルミニウムやマグネシウムの合金で作られており、ジェット機の軽量化に我が社は寄与しています。


閑話休題

雨上がりの、水滴のついた蜘蛛の巣はなかなか風情がありますね。

   

   最近、蜘蛛の糸には空気中の水分を凝集して水滴を作る能力があることが判ったようです。さらにその機能が糸の形態にあることも明らかになり、ナイロンから同じ能力をもつ糸が作られたと報告されています

http://www.nature.com/news/2010/100203/full/news.20…10.47.html
http://www.nature.com/nature/journal/v463/n7281/ful…08729.html


   これが砂漠で大気から水を得る手段に利用できる可能性が出てきたようです。

   ところが蜘蛛の巣のこのような能力が何の役にたつのかがまだ不明らしいです。糸に水が付いていることは糸の粘着力を低下させるので、蜘蛛には迷惑な性質である筈だとか。

世の中には未知の問題はまだまだ多いですね。

………

芥川龍之介 「蜘蛛の糸」あらすじ

釈迦はある時、極楽の蓮池を通してはるか下の地獄を覗き見た。幾多の罪人どもが苦しみもがいていたが、その中にカンダタ(?墓陀多)という男の姿を見つけた。カンダタは生前に様々な悪事を働いた泥棒であったが、一度だけ善行を成したことがあった。小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたが思いとどまり、命を助けてやったのだ。それを思い出した釈迦は、地獄の底のカンダタを極楽へ導こうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

極楽から下がる蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸をつたって登れば、地獄から脱出できるだろう。あわよくば極楽に行けるかもしれない」と考える。そこで蜘蛛の糸につかまって、地獄から何万里も離れた極楽目指して上へ上へと昇り始めた。ところが糸をつたって昇る途中、ふと下を見下ろすと、数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは糸は重さに耐え切れず、切れてしまうだろう。それを恐れたカンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚いた。すると次の瞬間、蜘蛛の糸がカンダタのぶら下がっている所から切れ、カンダタは再び地獄に堕ちてしまった。

その一部始終を見ていた釈迦は、カンダタの自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心と、相応の罰として地獄に逆落としになってしまった姿が浅ましく思われたのか、悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

閲覧数1,505 カテゴリ日記 コメント4 投稿日時2010/07/01 01:36
公開範囲外部公開
コメント(4)
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  • 2010/07/01 21:30
    korochanさん
    そうですね。
    くもの糸はなかなか強靭らしいですね。

    雨上がりのくもの糸、なかなか風情がありますね。
    自然は偉大だー
    次項有
  • 2010/07/02 00:39
    鉛筆コッチさん
    korochanさん

    自然は偉大であるが故に、神としての信仰の対象になるようです。

    しかし、蜘蛛の糸に水がつくことが、蜘蛛にとって何のメリットもなくて迷惑だけなら、神はときにはヘマをやることもあるのだなあ…と云うことになります。つまり神は完全なものではないのです。神は完全なものである…と定義するなら矛盾を生じます。

    神なんて失敗ばかりするもの…と考えていいのなら、矛盾は消え、存在してもいいことになります。

    しかし、私の五感によって認識できないものが実在するとは私には思えないので、いずれの定義の神も存在しないと私は想っています。

    ………なんて理屈をこねるよりも蜘蛛の風情を楽しむ方がいいですね。
    次項有
  • 2010/07/02 19:52
    ヒッチさん
    仏教では、佛の実在が議論されたこともないし、問題にすらなりません。

    お釈迦様は人間です。これははっきりしています。


    8万4千の法門を説いて80歳で亡くなりました。
    諸仏と言うのも、善智識(師匠)の事です。

    私のような、傲慢な男には頭を下げる、対象がいるのです。

    この歳になっても、厳しく叱られます。
    一生煩悩との戦いでしょうか。

    仏説では、そうでもないようですが・・・・・。
    次項有
  • 2010/07/02 23:37
    鉛筆コッチさん
    kata0133さん

    こんばんは!

    私は kata0133さんほどには勉強していないので、知識はあまりありません。

    ニーチェと釈迦は神の存在を否定した…とされています。

    しかし、釈迦がその存在を否定した神とは何であったのかが私にはよく判っていません。

    阿弥陀如来は神ではないのか、ヘッセの「シッダールタ」に出てくる超自然的な「真理」だか「宇宙」だったか(詳細は記憶から消えています)、個々の生命や地球、宇宙に普遍する、全てを包含する唯一のもの…。それは神ではないのか。

    ヘッセのいう、我々一人一人は、その唯一なるものの一つの表現もしくは枝葉でしかなく、その生死なんて、全体から見れば微々たるものであり、唯一なるものには何の変化も与えない、死とはただ本来の形態に戻るだけ…との思想には当時は納得したように記憶します。

    ヘッセが仏教の理解者であったのかどうかもよく知りませんが。

    現在の私はそんな考えに関係ないところで生きています。

    堕落したのか、超越したのか…。
    次項有
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