>石破茂首相の「戦後80年所感」全文 >戦後80年 >2025年10月10日 18:09 (2025年10月10日 20:45更新) (略) >(今日への教訓) >戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。 >日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。 >また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。 >内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。 >さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。 >情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。 >これらは時代に応じて、さらなる進展が求められます。 >政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。 >他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。 >政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。 >現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。 >無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。
そうですね。戦後、日本人は言論の自由を取り戻した。しかし、一億人を奈落の底に突き落とした政治責任者は出なかった。自由の世の中になっても日本人は責任者を名指しすることはできなかった。 自由とは意思の自由のことである。しかし日本人には意思がない。だから、自由そのものにも意味がない。不自由を常と思えば不足なし。それで、日本人は昔通りの堅苦しい精神生活を送っている。 意思のない人間には責任がない。ちょうど死刑執行人の様なものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意がないからである。 日本人には責任という言葉が昔からあった。それは義務を意味したが、個人意思の特権は含まれていなかった。 ‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
真の責任者を意思のない社会の中から見つけ出すことはできない。それで社会が混乱する。とかくこの世は無責任となっている。 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。 徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
>自衛隊には、わが国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。 >政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。 >組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。 >陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
我が国には個人主義がない。個人が守られなくては意思の一元化はできないですね。
>政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。 >責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。 >海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術に例え、「相当の心配はありますが、この大病を癒やすには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。 >しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東条英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。
それは意思決定 (理性判断) ではなくて、恣意決定 (盲目の判断) ですね。
>このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。 >政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
無哲学・能天気の状態では恣意決定になりますね。
>国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。 >政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。 >使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関に席をおいて自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>先の大戦でも、メディアが世論をあおり、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。 >過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。 >安倍元首相が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。
そうですね。言論の自由が必要ですね。
>これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。 >過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靱(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。 >ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。 >民主主義はコストと時間を必要とし、時に過ちを犯すものです。 >だからこそ、われわれは常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
日本人には意思がない。だから加害者意識もない。罪の意識もなく、深刻な反省に至らない。それで深い原因究明が行われない。
>自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。 >私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。 >現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。 >同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。 >一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。 >文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。 >政府、議会、実力組織、メディア全てがこれを常に認識しなければならないのです。 >斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。 >翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。
玉砕戦法ですね。 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
>どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。 >歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は開けません。
そうですね。
>歴史に学ぶ重要性は、わが国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。
そうですね。 ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。 これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967年 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。 「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領) ‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー) ‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相) 戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり。= 真に勝つことは自らの力を増すことで、戦わずして勝つことが最善である。 わが国は平和国家であるから自国の強大な抑止力 (物量) を相手国に見せつけながら、国家の最善を目指さなくてはならない。
>戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。
戦争当事国の責任者に直接会って ‘私は戦争が嫌いだ’ と言いつつ自己の力を示す必要がありますね。
>私は、国民の皆さまと共に、先の大戦のさまざまな教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、あたう限りの努力をしてまいります。 >〔共同〕
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