東京都港区青山南町6丁目(旧)育ちの私。
焼け跡だらけの町:青山(戦災を受けて多くの方が死亡)
その焼け跡伝いに青南(せいなん)小学校に渋谷から通う。
4年生の秋にそのルートを遮る場所に建った家に転居。
小学校の近くには青山脳病院の焼け跡が水溜りであり、よく
そこで潜って遊ぶ。
中村錦之助さんの住宅も学校側に有り、若い女性手紙を投函
してと頼まれて、母上を呼び出して渡したりした。
杉の細い木を持ち出して(あちこちで家が建ち始めていた)
二手に分かれて戦争ごっこも毎日していた。
時々何処かの母親が「怪我をさせた」と怒鳴りに来たが大し
た事も無くすむ。
釘を踏み抜いてそのままで家に帰り、破傷風に怯えた?事も
ある。
そんな頃に八百屋の分家がスーパーマーケット(2階建て)を
建てる。
しゃれた雰囲気で母親たちが通い始める。
その頃から母親たちの服装もお洒落に変わった。
まだ明治神宮の脇に進駐軍(アメリカ)が沢山住んでいて車で
この紀伊国屋スーパーに通ってきていた。
近くの肉屋が対抗してスーパーマーケットに変わる。
「よしはし」の登場だ!
焼け跡はどんどん減り、東京五輪で青山通りの拡幅がある。
青山中学の友人宅がその拡幅で無くなって転居して行く。
「三丁目の夕陽」の世界が消えてゆく。
豆腐屋のチャルメラ?も消えて、それでもクリーニング屋の
同級生は御用聞きに来ていた。
数年前に紀伊国屋の本店が建て変わることになり、友人の家
の隣に仮店舗が建つ。
色んな話が伝わり、経営が大変なことも判る。
とうとう4月1日から全株がJRに移るというニュースが新
聞に載る。
旧青山の終焉でもある。
現在同級生ではクリーニング屋の彼しか店などを経営している
者はいない。
同級生や下級生にはビル経営などのオーナーでこの地から収入
を得ていたり、住宅をマンション化しているのは数名いるが。
カミサン馴染みの成城の果物屋「成城石井」も現在は他へ資本
が移る。
特徴は残そうと新規経営者はその後も努力をされているが、本
質は変わってしまう。
さらば!わが町。
画像:茅ヶ崎海岸でのウインドサーフィン
12月30日