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2011年05月25日(水) 
今日は晴れの湘南。
波は無く、風が冷たい。
17℃前後から。少し気温は上がるも・・。

先週の三陸の旅レポート(第2回)

津波で徹底的にやられた『陸前高田』

今までの津波では、大した被害も無かったこの町。
気仙川の沖積地で三陸としては海に向って広い平坦部が
あり、そこに多くの人が住んでいた。

今回の津波は4階高さに到達。
5階建て以上の建物が殆ど無いこの街では、助かるのが
大変だった。

スーパーマーケット(3階建て)の屋上にいても足元が
濡れたそうだ。

私が見た建物(残っているのが少ないのですが)も殆ど
がやられていて、鉄筋コンクリートも鉄骨も3階以下で
は人を救えるものと成らず・・。

『この規模の街では、3階以下で街つくりを考える』
のが常識ですが、この大津波が来る地域では誤りでした。

『大津波が予想される沿岸地域には5階建て以上が必要』
それも適性に配置して、非常時に備える。
また屋上に上がれること(ドアキーはその入り口に常備)。

5月17日この街に入る。
道路はほぼ安全に通れる。
信号が無いので、警官が手で指示していた。

町中心部は駅の痕跡があるも、駅前商店街は消えていた。
「マイカ」や信金や公共施設の残骸が立つのみ。
後は敷地にまだ瓦礫がある中心部。
瓦礫を撤去中。
友人宅はその一角にあるが、何も無く鉄の塊がびっしり
と敷地に乗る。
彼の父と母は高田小学校へ避難した後で流されて亡くなる。
父は北の干拓地付近で見つかり、母は気仙川付近で。

運命なのか、安置所では隣通しで安置されていたそうだ。
本当の仲がお二人には有ったのでしょう。
喧嘩ばかりしていたとかも、喧嘩できるのは仲が良いから。

この中心部:水は今は無い。
海側の野球場付近はまだ水が残る。
また元々の畑や水田には水が残るも、瓦礫はかなり撤去され
ていた。

自衛隊の方々の数が多く、色々な作業に付かれていた。

丘の上の住宅や施設は無事。
しかし、今も水が無い。
塩水化が残る飲料用井戸。
これの処理には7月半ば迄かかる見込み。

避難所には仮設トイレがあり、それを利用。
避難施設では夕食の準備中。
女性陣が野菜を洗っていた。
夕食前にチーム長(班長?)が皆さんにハンドマイクで色々
を報告されていた。
この避難所は260人規模から160人規模に成ったところ。
個室が多くある高齢者用施設なので、混みこみの印象なし。

ここから、大船渡方向へはアスファルト剥がれて水没した道
路を通る。

この街の運転は、地元の知人に任せた。
丘を見ても、何処を目指すのかは余所者には無理。
45号線脇の大きな施設(病院の様な印象)以外の目標物が
無い。
スーパー「マイカ」の水色のマークで向きが分かる程度。

18日午前中は大船渡市域の碁石海岸や鞆漁港付近の防波堤
等と津波破壊域の集落を調査。

土木工事と建築工事自体の質は高い。
それでも破壊しつくす大津波は怖いと感じた。
午後は他の避難所(寺院の施設)と
元禄の建物が残る寺と1000年大杉を見る。
見事な大杉にパワーを貰う。

そして杉仕様の戸建て仮設住宅を見る。
岩手で気仙大工(住田大工)の郷で林業で知られる住田町。
そこの町長が提案したこの戸建て仮設。
音楽家の寄付3億円もこのアイデアを生かした。
坂本龍一さんは偉い!そしてここの村長も。
詳細はまた報告します。

帰りは大船渡港脇を通過。
加工品の腐臭が酷い・・。

19日は陸前高田へ。酒造『酔仙』の広大な津波被害跡や
町の中心部。駅と駅前商店街、彼の家の跡・・・を再訪。

その後は北へ向い、各湾内の壊滅状況を見ながら宮古へ。

画像:陸前高田の19日早朝の画像


閲覧数1,032 カテゴリ日記 コメント1 投稿日時2011/05/25 13:58
公開範囲外部公開
コメント(1)
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  • 2011/05/25 15:41
    詳細なリポートありがとうございます。
    現地には行ってみないと本当のことはわからないといいますものね・・・

    長い支援していかなくちゃと思います。
    次項有
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