早いもので15年目の神戸での国際会議に参加してから
もう2年経ちました。
5日目の火事が終息した頃に御蔵や新長田やあちこちへ。
無事な建物もあるが、あれま~という惨状多し。
しかし、人は力強かったな~。
あるマンション前では冷蔵庫の残り物をバーべキュ中で
食事に誘われた。
少ない被害の建物には、間を置いて修理が可能と伝える。
しかし、200万程度の取り壊し費用給付が優先されて
その大部分は消えてしまう。
今回の三陸大津波の後に柱・梁残る建物は再利用可能なの
に取り壊されているケースが多い。
太い柱や梁のリサイクルが年頭に無いのが残念です。
何処の被災地でも、教訓が生きていないな~。
17年前は都市災害だったので、いろいろと教訓を得た。
土木や建築の考え方が安易だったのは確かでした。
しかし、今の新耐震なんか丈夫な建物すれすれの強度しか
ない。
以前の様に過大な強度を持つ建物の数は逆に少ないのが現
状です。
国のお墨付きで、逆に大丈夫かよ?と想う私。
さて、2年前はこれで一区切りと想い帰りに大阪で遊ぶ。
前の年に急死した親友と1970年代初めに遊んだ街が
大阪。
堂島近くの寿屋本社屋上で、夏ビールを飲んだり。
吉本の芸人達の溜まり場:梅田民芸(コーヒー店)
雁平さんや小雁さん達とわいわい・・・
ビル地下の立ち串カツやをハシゴしたり
ふぐを喰いに道頓堀界隈へ。
安いフグの量の多かった時代です。
あの頃の大阪のパワーは凄かったな~。
経済パワーは落ちていても、大阪らしさがあるのは凄い。
初めての難波での3連泊。
ディープな大阪も知る。
小料理屋で、同じ年に1年だけ慶応へ通ったという人に偶
然であう。彼は2年からは一橋大学へ。
あの頃は同時に2つの大学へ通うなんて人もいたのです。
亡くなった親友も慶応理工を1年修了して東大へ。
農学部へ進んで寿屋へ。
ブランデーの研究からワインへ。
ボルドーのシャトーラクランジュの買収には彼の存在が多
きかった。
ボルドー大学のペノー教授の元で赤ワインの作り手として
活躍。
在ボルドーは数回で20年以上に及ぶ。
60歳前に戻り、シャトーのいろいろを纏めていた。
さて、大阪探訪中
市営地下鉄の料金が高い?で歩き過ぎ、膝を痛めた。
南から北へは常に歩きの私も。
流石に怪我の回復中だったので、膝から来た?
数軒の馴染みを作って帰宅。
今年はそれ以来の大阪・神戸行きを実現したいな~。
難波のホテルは殆どが韓国人のビジネス人ばかりだった。
2年後は?
放射能さわぎで東京を避けていた彼らも今は何処へ。
世界中何処へ出かけても韓国人のビジネス人に会う現在。
日本人ビジネス人は少し出遅れ気味かも?
がんばれ~!
国のパワーを売り込みにどんな地域にも出向きましょう。
画像:昨日の富士山 富士吉田から
昨年の半分もない冠雪です。