豊臣秀吉の伏見城時代、黒田官兵衛の伏見屋敷があった場所を探索してきました。 古地図(左:吉田地図発行の復刻版)では、「黒田甲斐守」とあります。現代の地図(右:ゼンリン電子地図)と並べてみると、道路がほとんど変わっていないことがわかりました。そこで、官兵衛の屋敷跡と思われるところを撮ったのが、下の写真です。 工事のフェンスのある土地とその左に並ぶ建物あたりではないかと思います。官兵衛の終焉の地には伏見説と福岡説がありますが、伏見説ではこの場所のはず…。しかし悲しいかな、今は何の痕跡も残っていないようです。石碑すらも…。 黒田官兵衛の伏見屋敷は、京都から宇治を通って奈良へ抜ける木幡道の八科峠(やつしなとうげ)の近くにありました。この街道は、伏見城築城に際して整備されたもので、往時は人馬が行き交う賑やかな道だったようです。伏見城にも至近で、見晴らしの良い便利な場所だったことが想像されます。 伏見では大名屋敷の跡地が町名として残っている場合が多々ありますが、官兵衛については、残念ながら伏見に地名はありません。〔聚楽第時代の邸宅跡には「如水町」の町名が残り、石碑があるそうです(上京区)。〕 町名といえば、「黒田節」に関係する町名が、伏見にあります。 酒は呑め呑め呑むならば 日本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士 黒田家家臣の母里太兵衛(友信)が福島正則の伏見屋敷を訪れた際、大盃を呑み干せたなら好きなものを褒美にやろうとけしかけられ、正則が秀吉から拝領した自慢の槍を呑み取ったというエピソード。 その福島正則の伏見屋敷があった場所には、桃山福島太夫北町・西町・南町という町名が残っています。 ちなみに、NHK「軍師官兵衛」では速水もこみちさんが演じているのが母里太兵衛です。