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2016年11月28日(月) 

 

 

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

>“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わるのは ‘その場主義’ ですね。信念という非現実の内容が、現実の内容に置き換わっていますね。

だから、理詰めの議論は必要ない。すべて丼勘定で行く。

 

>このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。

 

日本人の理解は論理ではない。心情である。だから、国際的な言語表現上の混乱は避けられない。

 

>”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

 

そうですね。相互理解とは、なあなあ主義のことです。以心伝心かな。恣意 (私意・我がまま・身勝手) には意味がない。矛盾さえも指摘できない。

 

>ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。

 

そうですね。理屈などを述べる気は毛頭ない。’自分の恣意の存在を認めよ’ とのことでしょう。役人は、’上意下達’ が仕来りですからね。上の者の恣意を下の者に到達させることですね。

 

>つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。

 

平たく言えば、‘恣意を容認せよ’ とのことですね。’許せよ’ということです。我が国の伝統ですね。

 

>したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。

 

そうですね。’長い物には巻かれよ’ という意味になります。さすれば、何事も穏便に済ますことができます。我が国は、天下泰平の国になります。

 

>だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

そうですね。‘力は正義’ (Might is right.) ですからね。昔も今も変わりありません。理解は、観念・諦めのようなものですね。独りよがりの日本人の自信は、外国人を前にしても消えることはない。

 

 

 

 

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閲覧数620 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2016/11/28 18:07
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