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2017年06月14日(水) 

 

>心身一如(身体で覚える)になるには修業が不可欠なのだろうなーとは思うのですが、ただ、日常的には、身体と向き合うこと、身体を感じること(内なる感覚に耳をすませること、みたいな)という感じではないのかな?と思います。

 

そうでしょうね。神経を集中する修業が必要でしょうね。

 

>そうやって感じ取った言葉にならないものを、先人がやっとのことでなんとか表したものが、伝統芸能の「型」だったりするのでしょうね。

 

そうかもしれませんね。’型’ は非言語ですからね。非言語の技術・芸術に反映されます。

 

>昨日、身体知に関する勉強会(上智大学大橋教授主宰)に参加しました。とても刺激になりました。

>身体知には、「身体を知ること」と「身体が知ること」の二面があります。私は仕舞の稽古をしながら、毎回「身体を知る」ことに楽しみを感じています。西洋の常識に捕らわれがちな現代人にとって、中世日本人の身体の使い方を知ることで、自分自身の身体を発見することがあります。例えば、いわゆる「ナンバ歩き」は、身体が本来持つ力を感じさせます。

 

ナンバ歩きは、右手と右足、左手と左足を同時に出して歩く歩きかたですね。

 

>昨日の勉強会のテーマは後者、「身体が知ること」の方でした。頭ではわからないが、なんとなく体がわかるってことありません?頭で迷った時は、体の声を聞いてそれに従うようにしています。勘といえば勘ですが、その成功率は高い気がします。

  

>身体が知る「何か」、それを「原事態」と呼びます。問題は、それを言語で表現できないことです。日本人は、元来それを諦めていたようです。「背中で語る」とか「芸は盗め」など、言語を使わず理解することを当たり前としてきました。

 

心から心へと伝えられるものですね。

 

>一方、西洋はそこに科学を持ち込み、何らかの言語化をし、再現可能にしてきました。逆に言えば、言語で表現できないものの存在は認めない。

 

そうですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではありません。

 

>日本人も特に戦後は、科学万能主義のもとで、言語化を模索します。その典型がマニュアルです。しかし、マニュアルで表現できるのは原事態を100として、10以下でしょう。

>それでもゼロよりはましです。

>ただ、問題は10を理解して100を理解したと勘違いすることです。

>マニュアルやルール万能主義とはこのことです。

 

自転車の乗り方を実技なしでマニュアルにより覚えるようなものですね。

 

>謡を最初に学んだとき、なぜ五線譜で表現してくれないのかと、不満でした。

>先生に尋ねると、謡では西洋音楽のような絶対的な音の高さは決まっておらず人それぞれだ、またたった五線では表現できない、との回答。

>あくまで便宜的に西洋で開発された表記法を、当たり前のように使おうとする自分の愚かさに気づきました。

 

大変な理解ですね。

 

>西洋では割り切って五線譜ででも表現するのに対して、日本では言語化できないものは言語では表現しないのです。

>そこには大きな違いがあります。

>では、日本人はどうやって原事態を伝えてきたのか。

>基本は先生による口伝えです。

>もっと本格的には、長い時間を一緒に過ごす(でも教えない)という内弟子というシステムです。

>理屈はいいから、とにかく真似せよ。

>どんな芸能も技術もそうでした。

 

非言語の成果は計り知れないものがありますね。日本人は、心を物に込める技術を乞っています。心の働きは非言語の成果となる。細工物の仕上りが良い。非言語による日本人の心は国際間の言語障壁を乗り越えて外国人の心に伝えられ、そのセンス (判断) の良さが高い評価を受けています。おかげさまで日本製品は売れて、我が国は技術立国を経て、経済大国にまでなりました。

 

>禅にも「不立文字」[ふりゅうもんじ] という言葉があります。

>言葉では伝えらないので、師匠が弟子に口伝えで教えるということです。

>言語化を諦めているのです。

 

そうですね。日本人の精神活動は文章・言説では表現出来ませんね。以心伝心の方法で心から心へと伝えられますね。この方法なら外国語の不得意な日本人も、外国人にしたたかな影響力を及ぼすことが出来ます。

現実の内容は頭の外にある。非現実の内容は頭の中にある。内容を言語化しないと頭の中には入らない。その内容は疾く風化する。

 

>では、原事態を全く「形」にしないで伝えるのか?

>私は、言語ではないが形にする方法もとっていると考えます。

 

そうですね。非言語の形式ですね。心を形で伝えます。

 

>例えば公案。

>禅には公案があります。

>師匠が弟子に対して与える課題です。

>例えば「隻手の声」。

>(両手で打ちあわせば大きな音がなるが、片手ではどんな音がするか?)

>言語ではなく、公案という形の課題を与え、考えさせることで伝えるというアプローチです。

 

難しいですね。考えさせるが、考えにはならない。考え (非現実の文章内容) とは別次元の精神活動ですね。

矛盾を含まない内容は、すべて正しい考えであります。英米の高等教育は、言語による理解を発展させていますからね。英語を知らなければ、学問はできません。

 

>もう一つは「型」です。仕舞とは多くの型の組合せでできています。

>型とは非常にシンプルなもので、それを覚えることはそれほど難しいことではありません。

>だから、型さえ覚えれば、私のような素人でもひととおり舞うことはできます。

>しかし、当り前ですが、先生が舞う仕舞とは全く別物です。

>型は正しくても所詮先生の100に対して10以下なのです。

>それを埋めるのは、やはり稽古です。

 

稽古・稽古ですね。力士の励みの様なものでしょうか。

 

>思うに、型とは先生の仕舞(原事態)を圧縮したものにしか過ぎず、学ぶ私は圧縮された型の複製を、解凍しなければならないのです。

>その解凍するプロセスが稽古なのです。

>解凍するということは、シンプルな型からどれだけ原事態を想像し再現できるかということでもあります。

>しかもその想像とは、頭によるものでなく身体によるもの。

>言葉にできないものを、頭では理解できないからです。

 

そうですね。非言語は理屈で理解できないですね。学問ではないが価値が有る。

 

>言葉にできないものを、わずか10という言語で理解したつもりになってはいけません。

>わずか10なのだと謙虚に認識した上で、100に近づけるよう想像力を身体にはたらかせるのです。

 

忖度 (推察) を働かすのでしょうね。

非言語に強い日本語と、言語に強い英語を二刀流として使うのが良いと思います。さすれば、我々日本人は ‘鬼に金棒’ の国民になります。

 

 

 

.

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数626 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/06/14 11:13
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