(略)
>能は主人公となる「シテ(『羽衣』ならば天女)」と、相手役となる「ワキ(漁師)」の掛け合いで展開しますが、物語が進行すればするほど、会話の「間」が短くなり、共話も増えていきます。ふたりの気持ちは、ふたりを超えて風景になってしまう。会話が進めば進むほど深化し、表層の「こころ」から、深層の「おもひ(思い)」へと移行していきます。>自他の境がだんだん消失していくのです。
そうでしょうね。日本語を使うと没個性的になるでしょうね。
>そして、シテとワキの「共話」が頂点まで盛り上がると、それが地謡(じうたい)という、舞台の横に並ぶコーラスグループに引き継がれます。ふつうならば、地謡はふたりの会話を引き継ぐと思うのですが、両者の会話が地謡に引き継がれた途端、その場の風景のことなどが謡われてしまうのです。>ふたりの思いは自他どころか周囲の風景とも混ざり合い、溶け合ってしまう。個人の意識(こころ)から、集合的な無意識(おもひ)へと変容していくのです。
現実の世界は一つです。ですから、実況放送・現状報告の内容には、個人差がありません。
>これも能だけに限りません。日本人は昔から、感情を個人の中にとどめず、風景と溶け合わせるという心性があったようです。
日本語は、実況放送・現状報告のためにある言語ですからね。つまり、現実描写のための言語です。風景画を描くような言語です。非現実を表すことはできません。非現実を表現しようとすれば、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は言います。話にうつつ (現) を抜かしてはいけないということです。
>私は全国で「寺子屋」を開催しており、毎回様々な世代の方が参加されますが、時々、皆さんと一緒に文部省唱歌を歌ったりします。で、たとえば『朧月夜』を歌う。すると、高齢の方ほど涙を流されることが多いのですが、どこが悲しいんだろうと『朧月夜』の歌詞を読み直してみても、「悲しい」とか「さみしい」とかいうような感情表現はひとつもないのです。歌われている内容は、ただ風景だけです。しかし、歌われる風景によって記憶が呼び起こされ、涙を流す。風景の中には、心の奥底にある感情を刺激する「情の糸口(緒)」、すなわち「情緒」があるからです。
記憶は呼び起こされるが、文章にならない。言葉はバラバラな単語のままである。非現実の内容を文章にするには、時制というものが必要です。時制があれば、過去・現在・未来の三世界の内容が独立した文章になります。現実の世界は一つしかありませんから、この三世界は非現実の内容になります。つまり、個人の世界観です。頭の中にある内容です。考えの内容です。
>月や花は、ただ、そこに存在しています。しかし、それに対して、私たちは何かを感じる。本居宣長はそれを「もののあはれ」と呼びました。「あはれ」とは、見るもの、聞くもの、触れるものに対して心が何かを感じとり、無意識にあふれ出してしまう「あぁ……」という深いため息です。>「もの」というのは、物の怪や物思いという言葉があるように、言語化できない漠然としたものです。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。考え (非現実) には、個人差が有る。それぞれの個人の特徴が考えにあらわれます。文章ができれば、個人の内容を識別できます。個人の違いを大切に保護しようとすれば、個人主義の大切さがわかります。
>思いがかなわない、取り戻すことができない、自分にはどうにもできない。言葉にできない感情や思いを抱えたとき、「身(心と身体)」の底から嘆息(なげき)の声があふれ出し、それを風景に重ね合わせていく。『万葉集』をはじめとする歌集や『奥の細道』などにも、そうした歌や句はたくさん登場します。
文章化できない頭の中の内容は、バラバラな単語のままでとどまっています。ですから、日本人の想いは歌詠みになります。
.
|