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2017年10月17日(火) 

 

 

>「昔はよかった」──そう言いたいのではない。

 

それは、老人の言うことですね。

 

>利権や派閥の論理に彩られた「古い自民党」は、国民の猛批判を浴び、下野を余儀なくされたこともあった。

 

そうですね。金権体質は、国民の反発を買いましたね。

 

>しかしそうした「汚さ」の半面、かつて党の中枢を担った議員たちには「政治とはかくあるべし」の矜持があった。

 

‘汚さ’ と ‘政治とはかくあるべし’ は、関係があるのですか。’汚さ’ の言い訳に、’かくあるべし’ が使われたのではありませんか。

 

>彼らは言う。「今の自民党は、もはや国民のために在る政党ではない」──と。党政務調査会長、建設大臣を歴任した亀井静香氏(80)が諫言する。

 

そうでしょうね。日本人には、世界観 (非現実) は無いのですから、処世術 (現実) そのものに関する内容になるでしょう。すなわち、今だけ、金だけ、自分だけでしょうね。

哲学 (非現実) が無いのですから、今 (現実) だけの内容になるでしょうね。

金は、目的に対する手段にしかなりません。ですから、無哲学であるがために、未来社会の建設は想定外になっています。建設に役立てる金とならなければ、金余りが生じますね。その金をアメリカ政府に貸しているのではありませんか。

無哲学・能天気であれば、未来社会の内容は想定外になりますので、自分だけに関する目的になりますね。世の中に対する建設的な励みはおこりません。

 

>このところ自民党の若手議員や閣僚の不祥事が続いているのは、派閥が機能しなくなったからです。

 

人間序列の仕来りが、序列人間の不祥事を抑える仕組みがありましたね。昔の修身教育のようなものでしょうか。

 

>かつては「資金の面倒をみる」「人事を責任を持ってみる」という機能が派閥にあり、それによって派閥幹部は若手議員に対する統制力を持ち、鍛えることができた。ところが、いまはその機能が失われてしまった。

 

序列主義から、個人主義に移行したのでしょう。派閥人間が消え去りましたね。個人の価値が問われる時代になったのでしょう。

 

>大臣も派閥幹部が人物を見極めて推薦するのではなく、そのときの総理と取り巻きが一本釣りで決めるようになったので、いい加減な人物が入り込みやすくなっている。

 

大臣は総理が責任を持って選ぶものでしょう。政治家が個人に着目する時代になったのでしょう。

 

>しかも議員になる連中がろくでもない。自民党に限らないが、都議選を見ても、いままで政治に対して真剣に向き合ってきたような候補者なんて皆無でしょう。

 

それは、有権者の選択に由るものでしょう。無哲学・能天気な議員が選出されるのには、訳がありますね。有権者は、どこの国でも自己の大きさに見合った議員を選出するものでしょう。

 

>有権者も風で選んでいるだけで、候補者を見ていない。有権者がアホだから、アホな政治家しか出てこない。(以上 週刊ポスト)

 

議員の候補者選びは、難しいですね。話の内容で選ばなくてはならない。その内容 (非現実) は見ることが出来ない。

無哲学・能天気の有権者はアホですね。

全ての考えは、文章になります。文章にならないものは、考えではありません。

現実の内容は頭の外にあります。考え (非現実) の内容は頭の中に在ります。両者は、所在が違いますので、同じ内容にはなりません。

考え (非現実) の内容は、時制のある文章内容になります。ところが、日本語文法には、時制 (tense) というものがありません。ですから、日本人は自分の考えを言い表すのに苦労しています。

時制のある構文がなく文章になれない単語の群れは、バラバラな状態のまま存在します。個人の想いは、片言・小言・独り言として発せられ、聞き手は、それを・忖度 (推察) で受け取ります。忖度は聞き手の勝手な解釈で発言者の責任でもなく、議論の対象にはなりません。正しい考え (矛盾を含まない文章)・正しい理解の言語学習の道から大きく外れています。これは我が国の教育上、大きな問題でありましょう。

現実の世界はただ一つです。非現実の世界は、過去・現在・未来と三世界に分かれています。これらの三世界の内容は、文章上 (考えの上で) 決して混じり合うことがない内容です。時制のある文章の作り方は、英米流の高等教育になっています。英語には、時制があるからです。現実の内容だけを語る人は、浅薄な人です。現実と非現実をはっきりと区別して考え、それらを比較しながら語る人は、思慮の深い人です。非現実の内容が頭の中にある人は、時流に流されることがありません。ですから、付和雷同が防げます。我々日本人は、日本語と英語の両方を学ぶ必要があります。そうすれば、アホな有権者とアホな政治家をこの国からなくすことが出来るのです。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、バラバラな単語でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

 

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閲覧数431 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/10/17 01:10
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