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2017年12月15日(金) 

 

 

>よく、人の意見を否定する人がいる。

 

論客は、’ああ’ 言えば・’こう’ 言う。’ああ’ でもなければ・’こう’ でもない、’あれ’ ではいけない・’これ’ ではだめだと力説する。

 

>一見正しいことを述べているように思えるが、自分こそが正しいのだと思い込んでいることが多い。

 

そうですね。暗記力専門ですね。相手の考えは受け入れられませんね。

 

>一定、自分の中で理論を組み立てているから、相手の意見が不十分に感じると、自分の理論が正しいと主張する。

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾のない内容は、すべて正しい考えを示しています。考えは、個人個人で違っています。正しい考えは、一つではない。

 

>要は、人を真っ向から否定する人というのは、相手のことを考えられず、自分が正しいことを主張したいだけなのだ。

 

そうですね。‘○○の一つ覚え’ ですね。相手の言う内容を理解できない人でしょう。日本人には、文章 (考え) の理解が難しいようですね。通常、日本人は理解の代わりに忖度 (推察) を使います。忖度は、聞き手の勝手な解釈で、発言者には責任が有りません。ですから、議論になりません。忖度の主は、’だって、本当にそう考えたのだから、仕方がないではないか’ と言い訳をする。理解の意味を本当に理解していないから、忖度 (推察) との区別が付けられないのでしようね。思い込みが激しいのです。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、推察にとらわれた日本人のことを下記の如く指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

>しかし、私はその否定する行為自体が間違っているのではないかと思う。

 

そうですね。矛盾のない考えは、すべて正しいですからね。正解は、一つではない。しかし、相手を理解できなければ、答えは一つになります。唯我独尊です。

 

>誰しもそれぞれ考えはあって、その考えがまだまだ不十分であることも多々ある。

 

足らないところがあったら、そこを補えばよい。だから、議論が役に立ちます。

 

>そこからどうするかを考えていくのが楽しいのであって、それを付け入るように否定(指摘)するのは、相手の活力を奪うことになる。

 

建設的な意見は、楽しいですね。不毛の議論は、相手の活力を奪うことになるからやめましょう。

 

>不十分な状態から、上の段階にステップアップするためには自分たちの枠を越えようとする本人の活力が必要なのだ。

 

そうですね。不十分なものには、それを補う活力が必要ですね。

 

>どうせ、意見を出すなら、相手の活力を生起させるような言葉をかけてあげるのがベストだろう。

 

同感です。否定論主義 (negativism) は、良くないですね。考えのない人には、生起させる言葉が見当たらないのでしょう。

 

>決して、相手もしくはできていないことを否定することはしてはいけない。

 

そうですね。相手無視は、’役立たず’ ですね。正しい作文 (考え) と正しい理解が必要ですね。それには言語の勉強が必要です。

 

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閲覧数558 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/12/15 10:30
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