>「学問なんてものは学者さんがやればいいことで、オレら市井の男たちには関係ないよな?」 てなことを主張してる中小企業の管理職はヤマほどいるわけだし、正直な話をすれば、私自身、その彼らの主張にまったく理がないとも思っていない。
そうでしょうかね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.
>でも、これは、文科省経由で出てきているお話だ。
文科省の役人は、相変わらず無哲学・能天気ですからね。
>お話の出どころは、「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という、文科省が招集している歴とした審議会である。
新たな高等教育ですか。高度な職業人の育成ですか。
>ちなみに、先の資料は、その「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」の第1回の会合(平成26年10月7日開催)の折りに配布された資料のうちのひとつで、経営コンサルタント冨山和彦氏の手になるものだ(こちら→「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議(第1回) 配付資料」の「資料4」)。 >ということはつまり、天下の文部科学省が招集した会議で、こういう内容の資料が配られていることになるわけで、てなことになると、私もさすがに、国家百年の未来を、懸念せずにはおれないのである。
そうですね。わが国の行き着く先が心配ですね。
>お国のトップが、新橋の酔っぱらいがクダを巻くみたいな調子で、お国の将来を背負って立つ次世代の若者たちの教育計画を立案しにかかっているんだとしたら、それこそ一大事ではないか。 >というよりも、これは、大学教育破壊計画と言えないだろうか。
教育計画の迷走ですね。相変わらずの行状ですね。
>このお話には伏線がある。 >というよりも、エリート教育と産業用人材の育成を分離して考える計画自体は、自民党内および経済界の中に古くからわだかまっていた、いわば保守本流の思想なのであって、いまさら私がびっくりしてみせているのは、実はカマトトぶりっこなのである。
わが国は、人手不足である。だが、頭脳不足の話は聞いたことがない。わが国の頭脳労働の方はどうなっているのか。天下の秀才ばかりで、どうにもならないのか。
>2000年の7月、前・教育課程審議会会長であった小説家の三浦朱門氏は、斎藤貴男氏の質問に対して以下のように答えている。 >《学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。
没個性の教育はほどほどにした方が良いですね。
>いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。>落ちこぼれの手間ひまをかけたせいでエリートが育たなかった。
同次元序列の過酷な戦いですね。この戦いで落ちこぼれが出る。
>だから日本はこんな体たらくなんだ。
とにかく、没個性の人間が多いのですね。
>つまり、できんものはできんままで結構。
そうですね。マイ・ペイスを守れば、個性的な教育になる。
>戦後五十年、落ちこぼれの底辺をあげることにばかり注いできた労力を、できるものを限りなく伸ばすことに振り向ける。
個性を認めることが第一ですね。
>百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。
日本人には意思がない。だから、指導力に欠けている。日本人も英語を学んで、自己の意思を表現できるようにいたしましょう。
>限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。》(出典は『機会不平等』斉藤貴男著、文芸春秋)
意思のない人間には、実直な精神が期待されていますね。今の日本人全体が、この傾向にありますね。
>------------------------------------------ >いわば現在の学校は落ちこぼれのためにあり、有能な人間が育つ場所ではなくなっている。
マイ・ペイスで勉強すれば、落ちこぼれはない。同次元序列の競争をさせて落ちこぼれを作っている。
>学校はその呪縛を解かない限り優秀な人間を生み出さない教育機関になってしまう。
そうですね。個性を無視した教育から学生を開放することが大切ですね。
>学校に行く意味とは・・・
個性を限りなく伸ばすこと。
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