>日本のいたるところで、ダイナミックな「暴力指導」が次々と明るみとなっている。>なぜ我々の社会は「暴力指導」を止められないのだろうか。
日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意では、暴力指導は止められない。 意思は、未来時制の文章内容になる。文章になるものには、意味がある。恣意は、ばらばらな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味も無ければ矛盾もない。そして、暴力指導の釈明にもならない。
>答えは明白で、「人間が成長をする上で、ある程度の暴力は必要」という「幻想」というか「妄想」にとらわれている方が思いのほか多くいらっしゃることが原因だ。
日本人には自分自身の考えというものがない。’あれではいけない・これではだめだ’ という。否定形による反応が指導原理となっている。それが文章にならないで暴力の形をとって現れる。自分の正解を相手に話せるようであれば、暴力を使う必要はない。
>軍隊のマネジメントを取り入れた「軍隊式教育」>暴力指導は悪いことだと頭では理解しているが、どうしても子どもに手を挙げることが止めれない――。
‘わかっちゃいるけど、やめられない’ ということか。スイスイスーダララッタ~
>薬物中毒患者の禁断症状を思わせるような話だが、この70年前の人々と全く同じことを、先日、謝罪会見を催した速見コーチが言っている。>「指導9年目になるんですが、最初のほうは危険が及ぶ場面で、たたいてでも教えることが必要だと思っていた。>ここ数年はよくないって分かっていながらも、我慢できずたたいていたのが数回あった」
歌の文句じゃないけれど、口で言うより手の方が早い。恣意の行為に身を任せていますね。意思がなければ、そうなるより仕方がないですね。意思のあるところには、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
>「気持ちが入っていない時、危ない時にたたかれていた。>当時はそれに対し、教えてもらえたという、むしろ感謝の気持ちを持ってしまっていたので、そこが自分の根底にあった」
調教風ですね。文章を使わない調教ならアニマルにも通じます。動物虐待で告発されるかな。
>実はこれは暴力指導の本質を突いている。>体罰を受けながら一人前の選手に成長をした速見氏は、頭では「今の時代、体罰はダメだ」と理解しながらも、我慢できずに女子選手を張り倒したり、髪を引っ張ったりした。>暴力やハラスメントで一人前になった人にとって、それを全否定することは、自分がこれまで生きてきたことを否定することになってしまうからだ。
せっかくの貴重な経験も ‘役立たず’ ですね。
>あの経験があるから今の自分がある。>そういう思いが強くなればなるほど、人は自分が受けた暴力やハラスメントを、愛する人に再現する生き物なのだ。>それが日本の伝統的な子育てなんだからしょうがないだろ、と思う人もいるかもしれないが、実はそうとは言い難い。
さあ、それはどうですかね。
>実は戦時中に「一人前の大人」となった人たちは、これまでの日本の伝統的教育とかなりかけ離れた教育を受けている。>それは、軍隊のマネジメントを取り入れた「軍隊式教育」ともいうべきものだ。
集団として、てきぱきと行動する訓練ですね。
>きっかけは、1885年に文部大臣・森有礼が始めた教育改革だった。>森は愛国者で、教育に、愛国的思想を大きく取り入れたことでも知られているが、一方で、後のラジオ体操にもつながる「兵式体操」を学校に導入したり、教師を目指す若者を寄宿舎に押し込んで、厳しい上下関係のもとで規律を学ばせたりという、「教育現場の軍隊化」を進めたことでも有名だ。
上下関係を使って規律を守らせることは、日本人には比較的容易なことでしょうね。
>運動会、前へならえ、整列行進、そして暴力指導……現代日本にも残る学校の「軍隊臭」はこの教育改革の賜物なのだ。
そうでしょうね。日本人は、何事につけても型に嵌らないと自己の行動に自信が持てませんからね。
>なんてことを言うと、「そんな昔の話を現代に結びつけるな、この反日左翼め!」と怒る方がたくさんいるが、「そんな昔の話」がいまだに我々の「常識」として脳みそにこびりついていることを示す証拠は枚挙にいとまがない。
我々の脳みそは、今も昔も変わらない日本語と結びついているからではないでしょうか。
>暴力指導の本質は「信仰」では、なぜそこまで渡辺は子どもに「軍服もどき」を着させることに執着したのかというと、親交の深い、森有礼の影響だと言われているのだ。 >130年以上が経過しても、いまだに我々がなんの疑問も抱くことなく、当たり前のように子どもたちに軍服を着させていることを踏まえると、平成日本の教育現場も、当たり前のように「軍隊」をひきずっていると考えるのは当然なのだ。
‘人のふり見て我が振り直せ’ と言うことかな。これは、わが国の処世術でしょう。
>森が目指した「教育現場と軍隊の融合」。>その是非はさておき、どういう結果を生むかだけは明らかだ。>それは、世界中の軍隊でたびたび報告される「いじめ」や「暴力」という問題が教育現場で再現をされることだ。
教育現状は真空地帯ですね。力士の傷害事件が起こるような雰囲気がある。
>寄宿舎に入れられた師範たちの証言がまとめられている、唐沢富太郎の『教師の歴史』(創元社)には、この教師育成施設で、「四年生は神聖、三年生は幹部」「鉄拳の乱下」など体育会運動部のベースとなる価値観がまん延していた事実が無数に記されて、以下のような問題も指摘されている。>「師範の寄宿舎生活には極端な軍隊的な階級制が存していたのであるが、これに伴って併発した現象が上級生の下級生いじめということである」(P.60)
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下とみるか’ の判断が疎かであると、礼儀正しい日本人にはなれません。わが国の階級制の問題点は、リーズン (理性・理由・適当) が度外視されることにありましょう。
>厳しい上下関係のもとで暴力とハラスメントを受けながら「師範」となった人々が、教育現場に出て子どもたちに、自分が受けた教育をどのように「再現」するのかというのはもはや説明の必要はないだろう。
そうですね。縦社会の人間関係ですね。同じやり方で、やり返すのみ。
>1949年の親たちが暴力を我慢できないのは、すべてこの森の教育改革の賜物である可能性が高いのだ。
森の教育方針は、実質的に国民の支持を得ていたのでしょう。
>よく日本人の暴力は、軍国主義が原因だという話になることがあるが、正確には「教育現場が軍隊になった」ことが大きい。
そうかもしれませんね。教育現状が暴力軍隊になっていたのですね。
>そして、教育が恐ろしいのは、中国や北朝鮮の反日教育などをみれば分かるように、パンデミックのごとく爆発的に社会に広まって、それが長く尾を引く点にある。
まさに国家による教育の力ですね。
>顔をひっぱたかれ、髪を引っ張られて18歳の少女が「暴力はなかった」と訴えた。>その親も、娘が暴力を受けているのを知りながら、その指導者を「信頼している」とおっしゃっていた。
この現象は、‘精神を集注してなせば、いかなる難事でも成功しないことはない’ という昔からある信念によるものでしょうか。
>その構図を見て、「宗教みたいね」と言って日本中から叩かれた人がいた。
信念の問題ですからね。雉も鳴かずば打たれまい。
>確かに、相手の気持ちに寄り添わない不適切な発言であって批判されてしかるべしだが、実は本質的なところでは、それほど間違ったことは言っていない。>暴力指導とは日本人にとって、理性や合理的思考を超越した、もはや信仰のような存在なのだ。
そうですね。日本人は、感情的な人間ですからね。リーズンを超越していることが多いですね。感情以外にないようです。
>神を信じる人に対して、神を否定しても聞く耳を持つわけがない。
そうですね。これは信心の問題ですね。
>「何も知らないお前に何が分かる」「あの素晴らしい体験があったから今の自分がいるのだ」――。
‘問答無用・切り捨てごめん’ ですね。悟道は文字・言説を以て伝えることができず、心から心へ伝えるものである。(禅宗の立場)
>そんなややこしい反論がきて、平行線だろう。
そうですね。わが国には、文字・言説では指導できない人たちが大勢存在していますからね。
>「愛のムチ」に対する信仰も、これと全く同じだ。>どんなに「暴力はダメよ」という社会になっても、ひっそりと一部の熱心の「信者」が隠れキリシタンのように守られていく。
文字・言説で指導ができないのは、日本語の言語機能が理性に関して弱いためではないでしょうか。
>それが日本人にとっての「体罰」なのかもしれない。>これからも日本ではこっそりと暴力指導が続いていくのだろう。
そうですね。’阿吽の呼吸’ と同じようなもので、‘わかっちゃいるけど、やめられない’ ということですね。
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