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2018年11月11日(日) 

 

 

 

>ノーベル化学賞(2000年)を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授は、科学や芸術などの学問を日本語で学び、考えることの大切さを説いている。

 

日本人には、日本語以外では科学や芸術の考えを発展させることは無理でしょうね。これにより日本人の良さを保ちます。

 

>「言語にはコミュニケーションの道具としてだけでなく、考えるための道具としての役割がある。人は母語で学ぶことによって、より核心に迫った理解ができる」と語る。

 

しかし、母語の文法に欠陥がある場合には、考える道具としても不自由することになるでしょう。

 

>日本人は古来、大陸の漢字文化を学び、江戸期以降は欧米の科学知識を意欲的に日本語に翻訳して学問体系をつくり上げてきた。

 

そうですね。わが国の文化は翻訳 (受け売り) によるものが主ですね。昔から、受け売りの励みには余念がありませんでしたね。

 

>現代の日本人が、世界の学問を容易に母語である日本語で学ぶことができるのは、先人たちによるこうした血のにじむような努力のおかげなのだ。

 

その通りですね。わが国は、他人の受け売りに成功した実例でしょうね。

 

>白川氏はノーベル賞を受賞後、「日本語で自然科学を学べる幸せ」についてずっと考え続けてきた。

 

そうですね。幸せですね。しかし、日本語にはそれ相当の難点もあるはずですよ。だから、英米人を頼らなくてはならないでしょう。

 

>日本人が日ごろ気付いていないこの恩恵は、歴史上どのようにして可能になったのか――昨今の英語教育早期化への見方なども含め、その思いを伺った。

 

日本語で学べる幸せが、日本人が海外留学を熱望しない原因になっているのではないでしょうか。日本語が便利すぎて、日本人は自己の蛸壺から抜け出いことが難しいのでしょう。日本人は、本職の移民にはなれないでしょうね。

 

>■意表突かれた質問、「なぜ日本にはノーベル賞受賞者が多いのか」

>――白川先生がこの問題への関心を深められるようになったきっかけは、ノーベル賞発表の際のある出来事だったとお聞きしました。

 (略)

>その取材があらかた終わった後、香港の経済誌の特派員が帰り際に、「ところで」と1つ追加質問をしました。「欧米諸国に比べると、日本人の受賞者は少ないけれど、アジア諸国と比べると断然多い。それはなぜだと思うか」というものでした。

 

アジア諸国と欧米諸国とでは知的能力に差があって当然と考えられているのでしょうね。その根拠は何でしょうかね。

 

>意表を突かれた私は、とっさに「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えました。

 

それは、以前から日本人自身により指摘されている事実ですね。それで、日本人には海外に出て得られる生身の経験に乏しくなります。

 

>頭の中にあったのは、アジアではインド、シンガポール、マレーシアなどは英国の、ベトナムはフランスの、インドネシアはオランダの植民地になったことから、各国はそれぞれの旧宗主国の言葉を使って学校教育をしているということでした。

>つまり学ぶための言語と、ふだん生活で使う言語(母語)が違う。

 

それは、そうですね。だから、昔から外国留学の長所が認められているのでしょう。英米人でも高等教育を受けていない者は、アジア人と似たような状態に置かれているはずですよ。

 

>この2つの言語は本来、学問を究める上で別々であっていいはずがないのです。

 

英米では、高等教育を受けた者とそうでないものでは、話し方が違いますね。ですから、彼らは高等教育の普及を特に重要視しているのでしょう。

 

>日本は欧米の植民地にされずにすみましたから、母語で学問ができるアジアでは珍しい国なのです。

 

そうですね。しかし、わが国においては、教育を受けた者とそうでないものとの話し方に顕著な差はないですね。

大学の四年間を遊んで暮らしたためなのでしょうね。わが国の高等教育は、日本語の再教育を目的にしていませんね。つまり、大人になるための国語の勉強が存在しないのでしょう。だから、退屈男・退屈女が一杯できます。

 

(略)

>■「教科書は英語、日常生活は母語」というアジアの高校生

(略)

>高校生に「あなたの国では物理・数学・化学を何語で習っていますか?」と聞くと、インドの高校生は「教科書も先生の講義も英語です。>でも、ふだん友達や家族とはヒンズー語で話します」と言います。>学問のための言語と生活のための言語が別々なのです。>マレーシアもシンガポールもブルネイなどもそうでした。

 

野球をするときには、野球用語を使うようなものでしょうね。この言語の使い方はコミュニケーションの道具としてであって、考えるための道具としての役割を果たしていませんね。

 

>しかし、生活に立脚した言語ではなく学問のための言語で、新しい学問を創造することができるのだろうか。>ただ浅く理解するだけで終わってしまうのではないか、と疑問に思いました。

 

そうですね。浅く理解するだけでは、無哲学・能天気の人間になりますね。教養のない英米人のようなものでしょう。

英米人の場合、高等教育を受けた人とそうでない人の話し方は違いますね。高等教育を受けた人は、英語の再教育を受けた人であるという感じがします。英米流の高等教育は、大人になるための教育でしょう。

 

>科学や芸術を創造し実践するということは、生活と一体化した行為なのではないでしょうか。

 

非現実 (考え) の内容を現実の中で実現に成功すれば、それは創造力を発揮したことになります。考えは、人ぞれぞれ違いますからね。個性の表現であれば、科学・芸術の創造に応じたことになります。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣になります。受け売り文化 (模倣文化) は没個性の過酷な激しい競争を展開することになります。この状態は、特亜三国 (日本・中国・韓国) に著しく見られます。

 

>――先生は米ペンシルバニア大学で1年間研究生活を送られ、その間に受賞対象になった研究成果を上げておられますが、思考する時はやはり日本語だったのですか。

>白川 会話は当然、英語ですが、その内容は頭の中で日本語に翻訳していました。話したことを日本語で覚えているのに、英語のセンテンスは覚えていないという奇妙な経験をしました。

 

それは、普通にある経験でしょうね。人は、一番重宝している言語で脳裏に考え (非現実) をまとめるのでしよう。

 

>バイリンガルでない人は、どうしても無意識に翻訳というひと手間かけて母語で考えているのだと思います。

 

何か国語話せても、結果は同じになるでしょうね。

 

 

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閲覧数451 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/11/11 04:38
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