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2019年06月30日(日) 

 

 

>――天皇の上にアメリカがいるという構図には、なるほどとうなりました。

 

序列社会の構図は、あくまでも序列体制ですからね。

 

>アメリカを頂点にいただく天皇制が「戦後の国体」であるという、この構図を導く際に示唆を与えてくれたのは、政治学者・豊下楢彦さんの「安保体制が戦後の国体になった」という分析です。>「天皇とアメリカは代替関係にある」と主張する社会学者の吉見俊哉さんの議論からも多くを学びました。>このふたつの視点をいれないと「戦後の国体」の姿は決して見えてこない。

 

そうですね。日本人の序列メンタリティは不変です。力士の序列を例にとりますと、外人力士と日本人力士は、代替え関係にあるようなものです。日本人には、何の抵抗感もありません。

 

>こうした先行研究を踏まえつつ、『永続敗戦論』以来思考を重ねたこの『国体論』では、現代日本の問題の本丸がどこにあるかを示しえたと考えています。

 

本丸は、日本語の階称 (言葉遣い) に基づく日本人の序列メンタリティにあります。

 

> 「唯一の被爆国」なのに核軍縮を拒む矛楯

>――戦前と戦後の「国体」の歴史を相似形として描いていますね。

 

日本語から派生する産物は、全て相似形になりますね。

 

> 明治維新を起点として「国体」、つまり近代の天皇制は形成され、いったんは安定をみた(大正デモクラシー)ものの、昭和初期になると日本を破滅的な戦争という破局に導いていった。

 

そうですね。序列体制には、理性判断がない。全てを上意下達でやる。上意とは、上に立つ者の恣意 (私意・我儘・身勝手) のことである。

 

>「戦後の国体」も、それと同じような三つの段階を踏んでいると考えます。

>今年明治維新150周年で、まもなく平成も終わりますが、2022年には戦前(維新~敗戦)と戦後(敗戦~現在)の長さが同じになります。 >それぞれの歴史を見てみると、明治の国体が「天皇の国民」であったのと同じように、戦後日本は占領された状態、「アメリカの日本」として始まる。

 

そうですね。日本人は、常に頭に冠を戴いていたことになりますね。

 

>しかし、その条件を利用して復興を果たし、経済大国へと成長する。>それは「アメリカなき日本」の時代であり、戦前では大正デモクラシーの「天皇なき国民」というつかの間現れた天皇制の支配が緩んだ時代と重なります。>ところが、戦前はその後、天皇制支配のハードな時代になる。>戦後もアメリカの支配を相対化できていたはずなのに、悲惨な見苦しい対米従属の国になった。

 

序列作法が緩やかなほど、民の活動は盛んになりましたね。

 

>それが現代です。>なぜそうなったのか。

 

日本人の序列メンタリティによる閉塞でしょう。

 

>戦前のファシズム期には「国民の天皇」という観念が現れますが、同様に、「日本のアメリカ」という不条理な観念を無意識に持つようになってきているからだと考えられます。

 

いずれにしても、自主性というものはありませんね。

 

>そのことがいま一番鮮やかに表れているのが核兵器に対する日本政府のスタンスの取り方です。 >「日本は唯一の被爆国」と繰り返してきたのに、反核平和団体がノーベル平和賞を取ったら全然相手にしない。 >アメリカが核軍縮をしようとすると「お止めください」と言う。 >つまり、ここには「《日本のアメリカ》の核兵器は日本の核兵器だ」という観念がある。

 

実に変わった考え方ですね。二人称の世界ですね。’日本語には “二人称” しかない’ と、イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本教について> の中で書いています。

 

> ****************************

>――ふだん「国体」についてあまり考えたことのなかったという人にどう読んでもらいたいですか。> 自由を求めて自立する生き方ということを考えてほしいのですが、その出発点として、アメリカ崇拝がどれだけわれわれの無意識に入り込み、卑屈さを生んでいるのかについて自覚が生まれないといけない。

 

日本人には、意思がない。’自由’ とは ‘意思の自由’ のことなので、意思の無い人には ‘自由’ そのものにも意味がない。

序列社会には上意下達の習慣があって、我々は無意識に卑屈さを取り入れています。序列人間のわびしさですね。

 

>例えば大リーグの優勝決定戦。>あれはワールドシリーズと言います。>全米一決定戦なのに、世界一決定戦を自称している。

 

おかしいことは、何処の国にもあるでしょうね。

 

>そのことのおかしさを日本人は全然意識していない。

 

戦時中の ‘国民は、ただただ天皇の為’ ‘天皇は、ただただ国民の為’ という関係によく似ていますね。

 

>本当なら世界一決定戦を太平洋の間でヤレというのがスジというもの。>アメリカは応じないだろうけれど(笑)。>でも、それでも言い続けるのが気概というものです。

 

日本人には、自分自身の考えがない。だから、それを言い続ける意思もない。優柔不断・意志薄弱に見える。そこで、精神主義が必要になるのか。

 

 

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閲覧数415 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/06/30 23:44
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