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2019年09月21日(土) 

 

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カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

>、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。

 

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には、意思がない。だから、「仕方がない」と言う言葉が生きて来る。 

意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思 (will) がない。

 

>本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。

 

政治は、建設的な活動ですね。「仕方がない」は諦観であり、反建設的な態度です。何事も、お変わりのないことが良いことです。

 

>この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、決意もできない。

 

>日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。

 

そうですね。日本人は、かねてから ‘独裁者を出してはいけない’ と言っていますね。

日本人には意思がないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は、未来時制の文章内容になるから意味がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。文章にならないから、意味も無い。

意思のある独裁者は、自己の意思を貫こうとする。だが、恣意の独裁者は、自己の恣意を貫こうとする。これは、日本人としても受け入れがたいことです。

自由は、意思の自由のことである。恣意の自由は、何処の国でも認められない。それは、’自由のはき違え’ になる。だから、恣意の人の社会においては、’不自由を常と思えば不足なし’ が正道となっている。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。

 

そうですね。日本人のいるところ全てに無意志が存在しますね。日本語と無意志は切っても切れない関係にありますね。

 

>、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)

 

そうですね。’方法がない’ と言うことは、とりもなおさず ’仕方のない’ ことですね。

我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解する必要がありますね。さすれば政治を通して未来社会の建設を考えることも可能になるでしょう。

英文法には時制があって、英米人には意思がある。彼らは日本語を話す時でも、日本人特有の閉塞感に襲われることがない。彼らには、考え方がいくらでもあるからです。我々も彼らのやり方を取り入れて、自己の内容を自由に広く表明しよう。我々が表現の自由を獲得した暁には、日本語特有の良さと合わせて、わが国は ‘鬼に金棒’ の国になります。

 

 

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閲覧数23 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/09/21 11:58
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