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2019年10月03日(木) 

 

 

>78548 次代に繋がる言葉の用法、

>吉国幹雄 ( 52 講師 )  04/09/28 PM10 【印刷用へ】 

(略)

> 日本語の用法の特徴は三つある。

>●言語中心 ●一語文 ●題目の「は」

>まず、前者の二つについて

>●述語中心

> 「日本語の特徴(16269)」にもあるように、西洋言語が主語中心の文脈であるのに比して、日本語の文はしばしば主語が省略される。

 

そうですね。日本語は、高文脈文化 (high context culture) の言語ですからね。

 

>主語が発話者であったり、文脈から予想されるのなら主語は不要である。>本源社会の日本人にとっておそらく必要な共認内容は行為そのもの(どうする)にあるのであって、元来「誰が」に力点はない。

 

そうですね。日本語・日本人には、個人主義の理解が行き届いていませんね。

 

>大主語(行為の主体)は「みんな」なのだろうから。

 

‘世の中は、、、、’ という発想法のようですね。

 

>⇒匿名社会(名ナシ・顔ナシ)をこじ開ける転換期には明確な主語は必要とされる場合も多いだろうが、少なくとも共認充足の場では発話者の主語など使わないほうがいいだろう。

 

困ったものですね。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>●一語文

>かつて「サンゴ族」と称された人々がいた。 >仕事で疲れて帰宅するや「お茶!(または酒!)」、次に「めし!」、食事を済ませると「風呂!」と宣言し、入浴が終わると翌日に備えて就寝。

 

‘サンゴ’ とは、’茶 (酒)・飯・風呂’ の三語のことですね。

 

> 今時、こんな旦那達は稀有の存在となっているが、何も新社会において奨励する気は毛頭ない。>ただ、よく耳にすることだが現在、「お茶!」というのは息子娘達で、そのたびに「お茶がどうしたの? 人にものを頼むならちゃんと言いなさい!」と嘆き指導するのが世の中の主婦達(場合によっては主夫達)のよう… >「お茶!」「お茶。」「お茶?」「お茶…」 > 上記はちゃんとした文の構造を呈している。

 

そうではないでしょう。文 (sentence) には、主部 (subject) と述部 (predicate) が必要ですね。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。考えの内容は、人様々である。だから、正解も無数にある。

 

>日本語では一語文は幼児だけのものではなかった。>子供も大人も頻繁に使う文型である。 >日本人は生まれたときから死ぬときまで日常的に一語文を使いつづける世界でも特徴的な民族だそうな。

 

そうでしょうね。わが国は、高文脈文化 (high context culture) の国ですからね。

 

> 一語文は共認関係(期待・応合関係)なしでは成立しない。>潜在思念や深層部分(期待)を、表層的な一語発話から聞き手は言語化されない文脈をわかっているからこそ応合できる。

 

それは、忖度 (推察) によるものですね。聞き手の勝手な解釈ですね。現実直視になっていないでね。これでは、議論にならないですね。

 

>阿吽の呼吸とは何も夫婦間の話ではなく、日本人はもともと備えているものなのだろう。

 

そうですね。日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。だが、日本人には、恣意がある。

意思は文章になる。だから、意味がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するから、文章にならない。だから、意味がない。

英文法には、時制がある。だから、英米人には、意思がある。意思には意味があるから、議論の対象になる。意思疎通も可能である。相手の理解が得られる。相手との連帯感ができる。

日本語文法には、時制がない。日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意 (self-will) には意味がないから、議論の対象にならない。相手の理解が得られない。相手との間に疎外感ができる。意思疎通はないが、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。意思決定 (理性判断) はないが、恣意決定 (盲目の判断) がある。これは、非常に危険なことである。リーズン (理性・理由・適当) が無いので、説明責任が取れない。兎角、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

自由とは、意思の自由のことである。欧米人は、自由を求めている。だが、恣意の自由は、認められない。恣意の自由は、’自由のはき違え’ として、禁止されている。だから、わが国においては、’不自由を常と思えば不足なし’ が現在においても通用している。

 

 

 

 

 


閲覧数8 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/10/03 14:33
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