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2019年11月27日(水) 

 

 

 (略)

>■身につけるべきは「教養」

>しかし、たとえば視野の拡大、思考の深化、全人格的な能力が向上すれば、時代がどのように変化しても対応し十分に乗り越えて行けるし、変化そのものを創り出す側に回ることさえできます。

 

各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

 

> 人間が他の動物と違って親の庇護のもとにいる時間が長いのは、環境変化を乗り越えられる底力を、それこそ長い年月を使ってじっくりと培っているからだと言われることがあります。 >そう考えれば、教育に求めるのはテストの点数やどこに進学したかということより、もっと根源的な思考力の獲得であり、それは目先ですぐ成果が出ない教育であるべきだということがわかります。 >そのひとつが「教養」です。

 

現実の内容は ‘今ある姿’ (things as they are) の文章になります。

非現実 (考え) の内容は、’あるべき姿’ (things as they should be) の文章になります。

前者と後者を比較して前者を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) を示したことになります。

だが、日本語には、前者だけしかないので、日本人には批判精神がありません。

そこで、日本人の比較論議は、現実対現実の枠内に限られることになります。一般的には、この論議は個人の特徴評価というよりも同次元の上下判断になることが多いのです。

だから、上下信仰・序列信仰・偏差値信仰がこの国に蔓延しています。

しかし、日本人は ‘それでどうした’ (So what?) の疑問には答えることができません。自己主張ができない。奥がない。それで、日本人は浅薄な人間であることが知れ渡ります。

 

>たとえば樹齢数百年の巨大な神木を目の前にしたとき、受験勉強だけをしていたら「この木は〇〇という種類で〇〇のような気候条件があったためここまで育った」としか出てこないでしょう。>しかし教養が育っていれば、その大木がタネから芽を出し、様々な風雪や病害虫に耐えて育ち、人々から敬われるようになったという時間や空間を超えた文脈、そして原風景までに思いを馳せられる感性や想像力が発揮されます。

 

受験勉強は、何処までも処世術 (現実) に裏打ちされていますね。

 

>そうした感受性や応用力を持てば、自らの力で人生の展開を構築することができます。>もちろん、より文化的で心豊かな人生にもなります。

 

受験勉強は、唯一の正解を求める励みですね。

 

>■親が「偏差値信仰」に陥ってはいけない

> ガリ勉させて得た進学実績などほとんど価値はなく、ガリ勉しなくても東大に合格するような根本的な能力の獲得の方が重要です。

 

あくまでも序列信仰にこだわっていますね。

 

>なぜなら、東大のようなトップ校ほど、深く考え、複雑な文脈を理解し、知識を横断的に統合する必要がある、思考力を問う試験だからです。>海外の名門校はさらにその傾向が強いと言えます。

 

日本人には、非現実 (考え) の内容がありません。ですから、英米流の高等教育は身に付きません。留学帰りの若者は役に立たないでしょう。

 

>それはこれまでも繰り返し述べた通り、自由に発想し、知的好奇心を持って課題を発見し、クリエイティブな方法で探求・解決し、それを表現・実現する経験を積むことです。

 

自由とは、意思の自由のことですね。しかるに、日本人には意思がない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ ということになります。

 

> 特に、ことさら進学実績をアピールする学校は要注意です。>ペーパーテストで良い点数を取ることしか頭にないからです。

 

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な序列メンタリティ (考え方) がないと、日本語の日常会話にも差支えが出るほどです。そのうえ、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人になることもできません。人を見損なってはいけないという想いが高じて、強迫観念の域にまで達しています。ですから、日本人は、堅苦して日常生活を送っていて、’頑張って’ とか ‘お疲れ様’ とか言い合ってお互いに励まし合っています。

 

>すると、それこそ18歳の春が能力のピークで、あとは下降するだけ、ということになりかねません。

 

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) 

 

>だからこそ、親が偏差値信仰の強い学校の手先になってはいけない。

 

わが国の親も学校も、偏差値信仰から無縁となることが望ましいですね。

 

>ペーパーテスト「だけ」ができるよりも、むしろペーパーテスト「でも」高いパフォーマンスを上げられるよう、親は学校教育とはまた違った目線で、子どもの個性を伸ばす教育を意識する必要があります。 

 

具体的には、どうすればよいのですかね。

 

(略)

 

 

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閲覧数32 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/11/27 10:54
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