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2019年12月15日(日) 

 

 

>持国天 19/09/22 AM09 【印刷用へ】  >福島原発の爆発と破壊は国民が固唾をのむ目の前で起こった。>水素爆発で立ち上る黒煙と白煙の衝撃は目に焼き付いて離れない、衝撃の現場は息をのむ惨状となった。>激しい放射能汚染の中、深夜に始まる脱出行やそのまま被爆を甘受せねばならなかった人々、今でも生々しい生き地獄を思い起こさす。

 

原子力による事故は、わが国に多いですね。子供の火遊びのようなものか。

 

>広島と長崎は一発を浴びただけだが、三基が続けて爆発し、しかも未だに放射線を放出していく。世界レベルでもチェルノブイリ原発事故(1986年)と並ぶ最悪のレベル7の事故である。

 

本当に最悪ですね。

 

>・本日の東京地裁判断は断じて歴史が許さない、権力の怠慢や犯罪は裁かない日本の司法は死んだに等しい。

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、意思の所在を指し示すことができない。

意思の無い人には、責任がない。わが国の責任には意思が欠けている。だから、日本人の責任はただ義務ばかりである。これでは、牛馬の苦しみばかりである。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

 

>すでに明らかにされてきたが、地震による津波に対してトップが招集した会議で、10mを超える津波で非常時電源がダウンするという報告は、少なくとも2年まえにトップの面前で報告されている。>担当役員レベルでは8年の4月には明らかにされている。

 

担当役員は優秀ですね。危険察知はできたのですね。

 

>電力などの基幹産業経営トップに求められるのは危機察知と迅速なトップ指揮である。>本能レベルの危機察知が作動していない。

 

そうですね。トップは、’何事も成ってみなければ分からない’ 程度の想いですね。

そうですね。日本人には、意思がない。それで、無為無策で過ごしている。

意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳には未来時制がなく、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は仕方がないから、無為無策でいる。まったく変わっていない。

日本人の意思決定が鈍いことは、相当前から知られていることですね。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが記されています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

 

>これは無責任な凡人を裁く裁判ではない。>嘗ての軍法会議(法廷)並みに、無策で部下を戦死させた上官を裁く、厳しく上司の責任を問う裁判だ。

 

日本人には自己の ‘あるべき姿’ (非現実) がない。だから、会議に批判精神 (critical thinking) の持ち主は現れない。

非現実・考えの内容は、時制 (tense) のある文章内容として表現される。時制のある文章内容は、非現実のそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) になっている。生まれた時には、それぞれの世界は白紙の状態であるが、成長するにしたがって白紙の状態は誰しも気にかかる所となる。そこで、各自がその内容を自主的に埋めて行く。これが世界観というものである。その内容は何処までも展開可能である。各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

 

 

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閲覧数1,110 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/12/15 01:01
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