>355862 戦後メディアの病① 国民総無責任化 >根木貴大 ( 45 静岡 営業 ) 20/04/19 PM10 【印刷用へ】 >リンク >2011年の福島第一原発事故にまつわる新聞やテレビの報道は、日本の戦後メディアが内包していた問題をまざまざと浮かび上がらせたと言える。
メディアの問題は、日本人の問題でもあるでしょうね。とかくこの世は無責任。
>風評被害を抑えるべき報道機関が逆に風評を煽ったケースは少なくなく、そうした報道はいまも続いている。>これらの風評は福島の人たちへの差別を生じ、大いなる苦しみをもたらした。
そうですね。新型コロナウイルスの報道でもあるでしょうね。
>この問題はおそらく、広島・長崎における被爆者差別とならんで未来への長い期間にわたって禍根を残し、後世に研究される問題になっていくだろう。
そうですね。今後、真面目に研究されるべき日本人に関する問題ですね。
> 「弱者の味方」であったはずの新聞やテレビの記者たちが、なぜこのような差別を引き起こしてしまったのか。
日本人には批判精神 (critical thinking) というものがない。だから、記者たちは自己の批判を加えることなく現実の内容のみを垂れ流す。 すると、風評被害も起こる。
>本稿では、加害者と被害者の関係という構図からこの問題について論考していきたいと思う。
日本人には意思がない。だから、被害者があって加害者がない。奇妙な社会ですね。
>前半ではなぜ戦後メディアがこのような構図に陥っていったのかを歴史を振り返りながら概観し、後半ではこのような構図が社会にどのような影響を与えているのかを論考する。
言語は伝える手段であると同時に、考える手段でもある。だから、我々日本人は、日本語の構文の枠内での考えに終始せざるをえない。すると、日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。
>■自分たちには責任はなかった >戦後マスメディアの問題の原点はどこにあるのだろうか。>出発点にまでさかのぼってみよう。 > 太平洋戦争が終わった1945年の暮れに『旋風二十年 解禁昭和裏面史』(森正蔵著、鱒書房)という本が出版された。 >上巻は最初の1週間に10万部を売り、下巻は翌春に出て70万部以上の大ベストセラーとなった。 >この本は張作霖爆殺事件から満州事変、2.26事件、日中戦争、開戦直前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたる間に政府がどのようなプロセスで政策を決定していったのかを、毎日新聞の記者たちが「暴露」したものだ。
記者たちは、裏面を詳しく知っていますね。暴露本ですね。
>序章にはこうある。 > 「このなかのあらゆる章には、これまでさまざまな制約のために公にされなかった史実が、多分に折り込まれている。 >抑圧された言論、歪められた報道は、われ等が現にそのなかで生活して来たわずか二十年の歴史を、全く辻褄の合いかねるものとしている」
日本人は、まったくリーズン (理性・理由・適当) を失っていたのですね。
>このように、軍部や政府の秘められた内実を暴露した本という体裁だった。 >しかしこの本には批判も少なくない。
暴露本は書ける。だが、その先は難しい。日本人には現実があって、自分自身の非現実 (考え) がないからである。
>たとえば日本の戦後の混乱期を包括的に描き出した米政治学者ジョン・ダワーのピューリッツァー賞受賞作『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)は、『旋風二十年』についてこう書いている。 > 「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。
現実しかない人のアプローチは、結局それしかありませんね。
>日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも(南京大虐殺は触れられてもいない)、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。
そうですね。心ここにあらざれば視れども見えず。 日本人には意思がない。意思の無い人間には責任もない。だから、意思と責任に関する問題が全て抜け落ちていますね。 意思は未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制 (tense)というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, thre’s a way. イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について以下のごとく述べられています。 、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、 (引用終り)
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