>長崎県の緑豊かな町で生まれ育ちました。>「階級」を実感し始めたのは、高校1年の時です。>英語のスピーチコンテストで決勝に進出。>意気揚々と東京の会場に赴いたものの、海外で育った子たちの英語の雑談にすらついていけず、強烈な居心地の悪さと恥ずかしさを感じました。
外国に行ったらさらに驚くことになるでしょうね。英語の役立たない国もありますからね。
>惨敗して帰る飛行機の中で、母はつぶやきました。>「これで分かったやろ。>ここは、別世界の人の場所さ。>上を見れば見るほど苦しくなるとよ」
私達日本人には ‘上と見るか・下と見るか’ の判断が深刻な影響を与えますね。序列社会には出世欲・向上心はつきものですからね。世俗的な序列争いは激しくなるばかりです。
>その言葉の呪いを解こうと、必死に周囲を説得して様々なサマーキャンプやコンテストに参加しましたが、周りの経済的な環境は自分とは違いました。
自分と同じ経済的な環境を探しても大した効果は得られないでしょうね。わが国は、一億総中流社会ですからね。
>どこに行っても「私は本来ここに居るべきではない」という感覚が付きまとい、行き場のないやるせなさが積もっていきました。 >どうしても逆数が分からない子、朝食を食べて来られない子。>幼い頃からそんな友達に出会うたび、彼らの可能性を最大限に発揮できる世界を作りたいという思いを強めてきました。
JICA (独立行政法人 国際協力機構) が派遣する青年海外協力隊は開発途上国で現地の人々と共に生活し、同じ目線で途上国の課題解決と貢献する活動を行っています。このような活動ならあなたは満足できますか。
>でも、人は「社会を作る側の人間」と「そうではない人間」の2種類に分けられていて、私は永遠に後者なのでは――という恐怖にとらわれてしまいました。
日本人は無哲学・能天気である。だが、各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 哲学とは考えである。考えは非現実の内容である。日本人が無哲学・能天気であるのは、非現実の内容が想定外になっているからである。非現実の無い人の話は実況放送・現状報告の内容だけになる。これは子供と同じである。これでは未来が開けない。従来通りの浪花節調の泣き寝入りになる。大人になる為の教育は英米の高等教育の中にある。その教育の内容は自己の哲学を完成させることである。当然のことながら、日本の教育にはそれがない。 英語の文法には時制というものがある。だから、過去・現在・未来に関する自分自身の内容を用意しなくてはならない。三世界の内容はそれぞれに独立していて進展がある。だから、人々は期待を掛けている。そして、相手の哲学に関しても強い注意を払うことになる。 政治に関する考えは政治哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 ‘人はみな平等に造られている’ (All men are created equal.) と言った人は尊敬される。 A ‘人間万事不平等’ という人はただの人である。 B Aは非現実 (考え) の内容である。Bは現実 (事実) の内容である。人々はAの内容の方を求めている。政治に関する指導性を発揮することができるからである。 東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が ‘女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる’ とB形式の発言をしたらどうなるか。それは皆さんがご存知通りである。 実況放送・現状報告の内容で日本人は納得する。だが、これでは世界の進展は期待できない。だから、人々は落胆する。この反応は無哲学の国 (日本) よりも哲学のある国 (欧米) で強い反発が起こる。現実を穏やかに収めたいなどという考えはどこにもない。 彼らの拘りは非現実 (考えの内容) にある。
>スタート地点が違うマラソンで、はるか前を走る人の背中を追いかけ続けている感覚です。
はるか前を走る人の背中を追いかける駅伝の走者のようなものですかね。
>昨年、そんな自分の葛藤をネットメディアの「note」に投稿すると、多くの反響がありました。>私が抱いていた違和感は、私だけのものではなかったようです。
日本人なら誰にでもある違和感かもしれませんね。日本人の追い求めているものには哲学がない。
.
|