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2021年05月08日(土) 

 

 

>物質的自然と距離が近い分、それに対する共感や、自分の心情を自然現象に投影するといった心理的交感が日本人の文化になった。

 

そうですね。周囲に対す日本人の忖度 (推察) が発達したのでしょうね。当然歌詠みも発達しますね。        

 

>それは和歌俳句の文化であったり、花見だったり、物質的自然の移ろいを諸行無常と捉えて儚むといった感応性質だ。

 

日本語の主な役割は、気分・雰囲気・感情に関する実況放送・現状報告になりますね。   

 

>言い方を変えれば、日本人は自分の心を自然世界と一体化させていった。

 

そうですね。日本人は日本庭園や岩風呂など ‘整えられた自然’ を楽しんでいますね。規模は小さくても盆栽・箱庭・一坪庭園も ‘整えられた自然’ を楽しむ方法ですね。      

 

>キリスト教を土台にした西洋文化では、物質的自然とは神に与えられた人間が管理する「もの」であり、人為的世界と自然世界ははっきりと区別されていた。

 

そうですね。西洋人にはキャンプとか探検・冒険など ‘手つかずの自然’ を楽しむ習慣がありますね。西洋には神にも人にも意思がありますね。だから、神と人は自然とは区別できますね。      

 

>だからこそnatureの語も生まれた訳だ。>西洋文化は物質的自然を客体として考え、それは科学の研究対象であり、人為が加わっていない無秩序の現れでもあり、人間にはそれを管理する責任が負わされているという考え方だったのだ   

 

意思のある人間には責任がありますね。   

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

 

>(もちろん現代になり、極端なアンティーク思考が緩和されてはいるだろう)。 >日本に話を戻そう。 >そしてここからが、何故日本で鳥獣管理をやりにくいのか、そして「日本人は自然環境保全への意識が薄い」と思われてしまうのかという要因だ。 >物質的自然とは移り変わっていくものだ。     

 

そうですね。現実は千変万化を続けていますね。        

 

>そこに人為的介入がなくても、日本では四季が明確に分かれている分、その変化を感じ取りやすかっただろう。>そして人間は自然世界に逆らえないことを日本の誰しもが知っていた。  

 

日本人には意思がない。だから、自然に逆らう方法 (仕方) も考えられない。    

 

>その変化を覆しようはなく、また変化しても物質的自然は回復する。

 

日本人には意思がない。意思の無いところには方法もない。無為無策でいる。諦観あるのみ。他力本願・神頼みが伝統です。              

 

>そう知っていたからこそ、日本人は変化に対して鈍感になっていったのだ。 

 

日本人の考えは発達することなく、対処は自然に丸投げされていたことになりますね。   

 

 

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閲覧数295 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/05/08 17:58
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