>367095 「やりがい」なんてものを追求するよりも「成果」を追求したほうが、圧倒的に幸せになれる >大崎 ( 27 会社員 ) 21/05/18 PM10 >就活等でよくでてくる「やりがい」のある仕事が見つからない等の言葉。 >あれこれ考えていても答えは出ずに、目の前の一つ一つの仕事に真摯に向き合っていくことで本当の意味の「やりがい」が見えてくるのかもしれない。
そういう人もいるでしょうね。
>以下(リンク >■やりがいは、自ら作り出す必要がある >やりがいは個人の願望に基づくものであるから、必然的に「誰も用意してくれない」。 >自分で設定し、自分で感じなければならない。
そうですね。自己の哲学によりますね。
>そしてここからが問題の核心なのだが、だからこそ「やりがい」の議論は、必然的に「やりがい」を得られにくい不幸な人を生み出す。>平たく言えば、「自らの願望」を他者の評価に依存している人は、「やりがい」を得にくい。
そうですね。
>単純に言うと >「他者にうらやましがられることがやりがい」 >「他者に称賛されることがやりがい」 >「人より抜きんでることがやりがい」となってしまう人たちだ。
日本人は序列人間であります。他人との比較がなければ序列を発想することはできませんね。 日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。 日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。 日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。 政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
>彼らは「人より」高給を得ること、「人より」羨望を集めやすい仕事に就くこと、「人より」知名度の高い企業に入ることが、「やりがい」の源泉になってしまっているがゆえに、その相対的な地位が上がらないかぎり、やりがいを感じられない。
‘人より’ の発想が序列人間の楽しみと苦しみの根源になっていますね。
>こういう人は、仕事そのものからやりがいを引き出しているのではなく、「世間的な評価」からやりがいを引きだしているので、自分の力でやりがいをコントロールできず、悩みがちである。
そうですね。日本人は序列のない社会 (外国) に住んだら序列による協力ができないのでエネルギーが盛り上がりませんね。
>では、何をターゲットにすべきかというと、これはもう、仕事においては圧倒的に「成果」を追求するべきだ。>仕事なんてものは、成果が出れば楽しく、手ごたえを感じられるものであって、おまけにカネも稼げる。>逆に成果が出なければ時間の無駄で、虚しいものだ。
それは目先の成果ですね。日本人は目先・手先に自己の神経を集中させていますね。
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