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2022年02月12日(土) 

 

 

>374825        内田樹の研究室より~男たちよ 思考停止から脱却する方法とは・・・    >田野健 HP ( 61 設計業 )      22/02/11 PM07

>男が立ち上がるには何が必要か? >まず思考停止に気が付き、思考停止を認め、治すことだ。

 

そうですね。日本人の無哲学・能天気が問題ですね。    

 

>内田樹氏は下記のように書いている。 >なんともシンプルな激励だ。

>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

>本紙の記者からの依頼は「思考停止している中高年サラリーマンに年頭の一言」をというものである。 >彼らはもう定年まで勤め上げて、花束をもらって見送られ、悠々自適の年金生活を送るというようなのどかな未来を期待することができない。 >人口減やパンデミックやAIによる雇用消失が目の前に迫っている。 >彼らは明日にも路頭に迷うかもしれないというリスクにさらされている。     

 

そうですね。   

 

>しかし、そのシリアスな現実を直視する勇気がなく、砂の中に頭を突っ込んでいる駝鳥のように思考停止に陥っているというのが記者氏の診立てであった。  

 

それは正しい見方ですね。    

 

>  どうしたらいいのか問われても、私に妙案があるわけではない。  

 

問題の根が深いから、理詰めで解決するより他に仕方がないですね。文化人類学の知識が役立ちそうですね。       

 

>中高年サラリーマン諸氏にはとりあえず「私は思考停止しているのではないか」という病識を持ってもらうしかない。  

 

そうですね。    

 

>病気になるのは「よくあること」である。 >病気になったら治療すればいいだけの話である。 >けれども、病気なのに「病気じゃない」と思い込んでいるといずれ危機的な事態になる。 >問題は、おそらく中高年サラリーマンの多くが「自分は思考停止なんかしてない」と思っていることである。 >だって、「周りの人間たちと同じことをしている」からである。 >ふつうは「みんながしていること」が「正常」で、「みんながしてないこと」が「異常」である。  

 

そうですね。健康診断において検査値が平均値を示せば、それは正常範囲と判定されるようなものですね。     

 

>みんなが思考停止している社会では、思考停止していることが「ふつう」なのである。

 

そうですね。世間並ですね。’それでも異常か’ ということになる。それを言い抜けることが難しい。      

 

>そして、これが現代日本社会のほんとうの病態なのだと私は思う。  

 

病識の無い日本人であることが本当に危険な状態ですね。   

 

>  例えば、全国紙や民放テレビは遠からずビジネスモデルとしては立ち行かなくなる。 >いくつもの新聞やテレビ局が消えるだろうが、その場合これまでそういうメディアが果たしていた社会的機能は何が代替するのか。  

 

メディアが果たしたご唱和の内容の伝播にはもう価値がないですからね。   

 

>重要な問いのはずだが、メディアはそれについては口をつぐんで語ろうとしない。  

 

ご唱和の内容を売り物にする動作がメディアの人には身に付いているからですね。その習慣は個人主義の敵ですね。これは不都合な事実ですね。          

 

>「なぜ私たちは存在理由を失ったのでしょうか?」と自問するのがつらい仕事だということはわかる。 

 

それは文明開化のせいでしょうね。    

 

>だが、おのれ自身の足元が崩れている時にそれを報道することも分析することもできないほど知的に非力なメディアには冷たいようだがもう存在理由がない。

 

そうですね。日本人は現実直視ができていない。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)          

 

>  思考停止から脱出するのはそれほど難しいことではない。 >自分の足元をみつめ、未来をみつめる。 

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

>そして、ただしく絶望することである。 >思い切って「しょんぼりする」のである。 >武道を稽古しているとわかるが、「しょんぼりする」というのは、構えとしてはきわめて安定的で、しなやかなのである。 >どこにも力みがなく、こわばりもない。 >何か起きてもすぐに対処できる。 

 

それは良いことですね。しかし、対処の仕方にも良し悪しがありますから注意が必要ですね。    

我が国では、恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて意思の代わりをさせている。そして、意地・根性・大和魂とする。意思決定 (理性判断) の代わりに恣意決定 (盲目の判断) をする。意思に関する討論の代わりに、恣意に関する腹の探り合い (談合) をする。意思疎通 (相互理解) の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) をする。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。だから説明責任は取れない。だから事後の責任はうやむやになりやすい。     

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。         

 

(略)

 

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数810 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/02/12 00:17
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