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2022年04月17日(日) 

 

>376739        あらゆる事態を想定して準備しておく必要がある  >匿名希望 ( 中高年 )           22/04/16 PM09

>最近のコロナ禍以降の世界の動き。>その裏で、経済システムの大転換、世界の表の覇者の交代、支配の強化、管理社会化etc.を進める方向にことが進んでいるように思われます。 >現在、何が起こってもおかしくない状況。 >あらゆる事態を想定して、我々庶民も備えておかなければならないのではないでしょうか。

 

そうですね。現実界は千変万化していますね。われわれには現実対応が必要ですね。備えあれば憂いなし。上有政策、下有対策 (上に政策あれば、下に対策あり)      

 

>4月中旬に入ろうとしているこの時期、異常に早い台風発生、しかも日本接近の恐れ、1号、2号と立て続け。 >これも、穿った見方かも知れませんが、人工台風の疑いも考えておくべき。 >Yahooニュース   >台風1号は記録的に早い日本接近台風となるおそれ  >リンク >台風1号に続いてフィリピンの東海上で予報円がグルグル巻きの台風2号発生か  >リンク  

 

われわれ日本人にとって台風の襲来は年中行事のようなものですね。    

 

>世界的にウクライナ情勢も含めて、食糧危機が叫ばれる中、台風による被害で、農作物の不作による輪をかけた食糧インフレ、高い外国産の輸入を強いられ、益々、我々庶民の生活は低下。  

 

能動的な発想も無く、ただ受動・受動と行くばかりでは我々の生活の道は拓けませんね。   

 

>あるいは、台風の方に国民の目を逸らす間に、ヤバイ法案を通したり、国際間でヤバい動き(etc.アメリカ言いなりの戦争加担や、金融緩和継続etc.)。  

 

残念ながら人間不信がありますね。受動ばかりでは身動きが取れませんね。   

 

>この手のことは、物証、確証を明示することはできませんが、様々の状況から仮説を立てて、予測し、備えることが、平和ボケ日本人にこそ、今、求められることではないでしょうか。  

 

現実直視は必要ですね。     

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

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閲覧数153 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/04/17 23:05
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