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2022年05月11日(水) 

 

 

>世界に逆行! 減少する博士号取得者 なぜ日本は「低学歴国家」に陥ったのか?(城繫幸)   > J-CASTニュース 2022/05/11 12:09

 (略)

>先日、SNSをふと見ると「低学歴国家」なる言葉がトレンドに上がっていて目にとまった。   >なんのことはない。   >わが日本国の博士号取得者が世界的トレンドに逆行して、減少していることを報じた記事がきっかけだったのだが、トレンドに上がるということは驚いた人が多かったということだろう。   >いい機会なので学歴と雇用について、まとめておこう。   

 

日本の常識は世界の非常識ですね。    

 

>【参考リンク】   >「『低学歴国』ニッポン 革新先導へ博士生かせ 教育岩盤 揺らぐ人材立国」(日本経済新聞 2022年5月2日付)   >「揺らぐ人材立国(1)『低学歴国』ニッポン 博士減、研究衰退30年 産学官で意識改革を」(日本経済新聞 2022年5月2日付)   >博士号取得者が減ったのは日本が終身雇用だったから  >終身雇用を前提とした組織では、できるだけ若く伸びしろのある人材を採用して、自社に特化した形で育成することが基本となる。   >伸びしろの有無は大学名で判断されるため、ポテンシャル採用という呼び方をされることもある。  >こうした採用を行う組織からすると、どうしても修士以上は「伸びしろが少なく、自社にとって使い勝手の低い専門性しかない」と映ってしまう。   >終身雇用型組織では、浪人や留年で3年以上寄り道している人間も敬遠されるが、これも根っこは同じである(※)。  

 

自社に特化した人間を社内で育成できるのでしたら、わが国に英米流の高等教育はいりませんね。   

 

>これに対し、終身雇用を前提としない組織では、自社でゼロからの人材育成なんてしないから、伸びしろやポテンシャルといった物差しがそもそもない。   >(実際に採る採らないは別にして)博士だからとか歳を食っているからという理由で門前払いするようなケースはほとんどないように思う。  >だが実際問題、日本を代表するグローバル企業はほぼ例外なく終身雇用型組織だ。   

 

そうですね。わが国は序列社会で成り立っていますからね。    

 

>そういう大手企業が博士を門前払いしつつ、ろくすっぽ勉強などしていないような学部生ばかりに内定を出し続けたら、博士課程を目指す人間が減るのも当然だろう。   >以上が、日本が「低学歴国家」に落ち着いた背景である。  

 

そうですね。そもそも日本人に教養なるものが必要とされているのですかね。    

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。日本人は正解が一つしかない問題を作る。だから、ご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 個人的な考えの違いは議論の対象になる。日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止して人は、つかみどころのない人間である。議論の余地がない。        

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

  

>(以下引用)   >(※)理工系職種は状況が異なり、大手の研究職は逆に博士(単位取得退学含む)が歓迎され、技術職も修士以上でないと厳しい。   >(以上引用)   >ジョブ型雇用で「低学歴化」から抜け出す!   >1990年代に、政府が音頭を取って大学院の重点化を推し進めた時期があった。   >博士を活かす組織内改革をスルーして「博士を諸外国並みに増やせば生産性も上がるだろう」とやってしまったわけだ。   >結果は、博士課程は修了したものの、新卒採用に応募すると「博士は対象外です」と言われ、中途採用に行けば「職歴がない人は対象外です」と言われる高学歴な就職難民が量産されることとなった。   >おそらく今回のニュースを読んで、当時を連想した人は少なくなかったのではないか。  

 

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話は存在しない。だから、日本人の頭はその程度で良いのではないでしょうか。   

 

>とはいえ、今、日本は100年に一度レベルの大転換期にある。  >日本経済団体連合会が終身雇用・年功序列はもはや維持できないと白旗を掲げ、実際に少なくない数の大企業が脱・年功序列であるジョブ型雇用に舵を切っているからだ。  

 

ジョブ型雇用には義理 (序列関係から生じる義務) がない。’義理が廃ればこの世は闇だ’ ということに日本人はなりませんかね。経団連は白旗万能主義でやり通せますかね。      

 

>【参考リンク】   >「『雇用制度全般の見直しを』中西経団連会長 経済3団体トップの年頭所感」(日本経済新聞 2022年1月1日付)  >ジョブ型雇用は「伸びしろ」や「ポテンシャル」の対極にある考え方と言っていい。  >いま担える職責で処遇が決まるなら、年齢やポテンシャルは関係なくなるし、人より長く勉強することが意義を持つようになる。   

 

そうですね。労働者個人の自由が広がりますね。個人の能力も増強されますね。      

 

>また、年功序列というレールがなくなることで、途中で大学院に戻って学び直すという社会人も増えるだろう。   

 

そうですね。しかし、‘上と見るか・下と見るか’ の判断は、なかなか日本人の頭から離れないでしょうね。  

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。   

 

>90年代と比べて、状況はかなり変わってきていると言える。  >今後ジョブ型雇用が浸透していく中で、徐々に日本の「低学歴化」も修正されていくのではないか、というのが筆者の見方だ。   

 

受験地獄のすさまじさを見てわが国を’ 教育立国’ であると判断した人もいたでしょうにね。実に残念なことですね。      

 

>(城繫幸)   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

 

 

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閲覧数28 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/05/11 15:11
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