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2022年05月19日(木) 

 

 

>JBpress   >コロナ禍で崩壊した「見せびらかし文化」、威光を失った管理職の末路   >太田 肇 - 昨日 11:00

 (略)

>学歴や出世が「偉さ」のシンボルだったサラリーマン社会だが……   >(太田肇:同志社大学政策学部教授) > アルバイト店員がいたずら動画をSNSにアップしたり、インスタで“リア充”をアピールするため高価な化粧品を買ったり、たいして興味もないのに海外旅行に出かけたり。 >若者の「承認欲求」がひところ顰蹙を買った。   

 

安価な自己実現ですね。   

 

>ところがコロナ禍の外出自粛で承認欲求が満たせなくなり、ストレスを強く感じる若者が増えているそうだ。 > 注目すべきなのは、それが若者に限った話ではないということである。 >サラリーマンの間にもいま、「承認欲求の危機」が起きている。 >拙著『日本人の承認欲求』(新潮新書、2022年4月発売)で詳しく述べたが、その原因は「見せびらかし」という日本の組織・社会に特有の文化にある。   

 

そうですね。我々日本人は序列人間ですからね。  

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は世俗的なモノの上下を覚えて堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。日本人の宗教には儀式 (作法) があって、教義 (教え) がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら序列順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

> では、その「見せびらかし文化」に浸ってきた日本のサラリーマンに、今後どんな運命が待ち受けているかを考えてみよう。  >出世の「偉さ」を見せつけられる場  > 承認欲求は人間にもともと備わっている欲求の一つである。 >心理学者のH・A・マズローはそれを二つに分けている。 >一つは自分の価値を認めようとする「自尊の欲求」であり、もう一つは他人から尊敬されたいという「尊敬の欲求」である。 > このうち尊敬の欲求が、日本人は独特な形で表れる傾向がある。   

 

そうですね。日本人は序列社会の序列人間ですからね。   

 

>自分の「偉さ」を他人に見せびらかしたいという意識である(無意識の場合もあるが)。 > その「偉さ」のシンボルとしてとくに重要なのが、肩書きや学歴だ。 >そもそも「偉い」という言葉には人格的な要素が多分に含まれているが、肩書きや学歴は人格の根幹部分と深く関わっているからである。 > 出世、すなわち社内で高い地位に就いた者は企業社会における競争の勝者である。 >しかも日本企業では、仕事の能力や実績だけでなく人格的にも優れていると認められた者が昇進する。  >そのため地位の序列は、暗黙のうちに人格的な序列と世間から見なされる傾向がある。

 

日本人の文化には、形式があって内容がない。 大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

> 会社のOB会や学校の同窓会でも、だんだんと出世した者ばかりが参加するようになり、昔話を肴に成功の美酒を味わう。 >会社とは無関係のPTAや町内会も、会社や役所で出世した人が役員に就くようお膳立てされていて、彼らの名誉欲をくすぐる場になっている。 > 当然ながら出世した人にとっては、自分の「偉さ」を見せつけられるこれらの場は居心地がよく、それが生きがいや働きがいにもなる。  

 

そうですね。日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分の名前を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

 

>シンボルとしての価値を見出している「学歴」  > 競争の勝者に与えられる称号という点では、学歴も同じだ。 >全国の同年齢の生徒が平等な条件のもとで競う入学試験で難易度の高い学校に合格した者は、世間から「頭がよい」といわれる。 >頭のよさもまた人格の根幹部分に関わる評価である。  

 

我が国には人手不足は生じても、頭脳不足は生じない。    

 

> 興味深いデータがある。 >内閣府の「第八回 世界青年意識調査」(2009年)によると、社会に出て成功するのに重要なものとして「学歴」をあげる日本人は10.4%にすぎず、アメリカ(51.7%)、イギリス(37.4%)、韓国(25.8%)などに比べてはるかに低い。 > 日本は昔から学歴社会といわれるが、青少年自身は学歴に実利的なメリットがあるとは考えていない。

 

博士号は足の裏に付いた飯粒のようなもので、取らないではいられない。    

 

>にもかかわらず彼らが受験競争にしのぎを削るのは、学歴じたいにシンボルとしての価値を見出していることを意味する。   

 

そうですね。我々日本人は見栄と外聞の世界に住んでいますね。   

 

> 経済学(人的資本論)では、教育は将来の所得を増やすための投資ととらえ、日本でも表向きは「よい学校に行くのは将来、よい会社に就職して豊かで安定した生活を送るため」といわれるが、一流大学を出て「頭のよさ」を見せびらかすためのものとしての性格が強いといえよう。   

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。       

 

>「能力の再定義」が進んでいる  > ところがバブルの崩壊と同じで、実質的な価値から離れて膨れ上がった評価は、状況が変わると一気に暴落する。  >その大きな原因となったのがデジタル革命、すなわちITやAIの普及である。 > 管理職の仕事の中で大きな比重を占めるのが情報の伝達や意見の集約、それに仕事の割り振り、調整などだが、次々に開発されるさまざまなデジタルツールによって、これらの仕事の多くが代替されるようになった。  >しかもデジタルツールのほうが格段に速く、正確にこなせる。 > また現場の担当者が直接社内外の人とコミュニケーションを取れるようになり、中間管理職がバランス感覚や調整力を発揮する場面も少なくなった。 >さらにいうなら、彼らの人格や人間性にそれほど依存しなくても済むようになったということだろう。   

 

そうですね。それは序列社会にほころびが出て来たのですね。     

 

> もう一つのシンボルである学歴の価値も大きく低下している。 > いまの時代、受験勉強や入試問題で一生懸命身につけた知識や能力もインターネットを使えば一瞬で検索できるため、ノートパソコンやスマホ一台にかなわない。  >もはや学歴が高いからといって「頭がいい」とはいえなくなっているのだ。 >むしろITやAIによって代替することが困難な、勘やひらめき、創造力、感性、空気を読む力といった人間特有の能力こそ大きな価値を持つようになった。

 

そうですね。人間特有の能力の価値が大切になりましたね。牛馬の能力の価値は相対的に低くなりました。 だが、空気を読む力は日本人の欠点ですね。  

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。   

 

> そこへやってきたコロナ禍がデジタル化に拍車をかけるとともに、労働力を流動化させた。   

>その結果、いろいろな仕事の現場では「能力の再定義」が急速に進んでいる。   

>要するに肩書きや学歴があるからといって、偉いとは見られなくなってきているのである。  

 

そうですね。肩書・学歴は時代に合わなくなりました。      

 

> 問題は、「偉さ」を見せびらかすことで承認欲求を満たし、それを働きがいとモチベーションの原動力にしてきた人たちが、これからどう生きていくかである。  >「偉い」にこだわり続ける人の末路   > 彼らの行く先は二つの道に分かれている。  > 一つは旧来型の「偉さ」にこだわり続ける人である。 >課長や部長といった管理職の中には、より高い地位を目指す人もいれば、現在の地位で何とか逃げ切ろうとしている人もいる。  > ただ管理職過剰の時代に昇進し続けられる人はごく一握りである。 >そのため多くは、改革に抵抗する守旧派となる。>しかしコロナ禍によって激変した経営環境が、逃げ切りを許さなくなった。 > コロナ禍で業務の継続が難しくなった会社や、経営を大幅に縮小した会社から人材を受け入れた会社・事業所の中には、部長、支配人といった肩書きは与えるものの、給与は平社員と同程度かそれ以下というところが少なくない。 >しかも定年まで雇用されたらましなほうだ。  

 

そうですね。これは守旧派の災難ですね。     

 

>「承認欲求」を満たせる新たな働き方   

> もういっぽうは、「偉さ」への執着を捨て、仕事の能力や実績によって承認欲求を満たそうとする人たちである。 >彼らの前には新たな可能性が広がっている。 > テレワークの普及によって、社外にネットワークを築いたり、自分の能力や実績をアピールしたりできる機会が増えた。 >また2018年以降、政府が社員の副業を解禁するよう政策の転換をしたことを受け、副業でビジネスを始めたり、会社を起こしたりする人も増えている。 > 企業の副業者だけで成り立っている会社や、さまざまな所属の人たちの知的資源をマッチングさせ、新たなビジネスに結びつける会社も現れてきた。 >能力や実力を社内外から認められ、それによって承認欲求を満たせるようになってきたのだ。

 

そうですね。社内外から認められる能力・実力が大切ですね。   

 

> さらに時間軸でみれば、より長期的に認められる可能性も高まっている。 >政府は事業主に対し、70歳までの就業機会確保を努力義務として定めた。 >その流れを受けて実際に70歳まで働こうとすれば、比較的若いときからスキルを磨き、プロフェッショナルあるいはスペシャリストとして貢献し続ける必要がある。 > それは、いわゆる「メンバーシップ型」雇用から「ジョブ型」雇用への移行という潮流に乗った働き方だといえる。   

>会社の制度に制約されず、体力と能力次第でいつまでも活躍し、承認欲求を満たせる時代が到来したわけである。   

> 承認欲求そのものを捨てる必要はない。   

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

>コロナ禍を機に、「偉さを見せびらかす」という日本の特殊な文化からの脱皮が迫られているのだ。   

 

そうですね。特殊文化の生活さようなら。   

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数31 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/05/19 14:38
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