>プレジデントオンライン >「指示待ち型は仕事ができない」は大間違い…大学教授が学生を主体的に変えるためにやったたった一つのこと >稲垣栄洋によるストーリー >・1時間 >「指示待ち型」の人を変えるにはどうしたらいいのか。 >静岡大学農学部教授の稲垣栄洋さんは「進学校出身の学生には『指示待ち型』が多い。 >指示待ち型と呼ばれる人は一般的に優秀で、どんなに難しい指示であっても指示に従ってやり遂げる。 >しかし、指示待ち型は、楽しくないので、彼らを主体的に動けるようにしてあげたいと考えていた」という――。 >(第3回/全3回) >※本稿は、稲垣栄洋『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々』(小学館)の一部を再編集したものです。 >進学校出身の学生に多い「指示待ち型」 >バイオリンが得意な満藤(まんどう)さんは、もともと、とても優秀な学生である。 >しかし、ひとつだけ気になることがあった。 >それは、彼女がやや「指示待ち型」であるということである。 >とにかく、私の顔色をうかがい、私が何を考えているのかを察しようとする。 >そして、私が期待するような「正解」を正しく導いてしまうのだ。 >「満藤さんは、どう考えているのだろう? >満藤さんは、何をしたいのだろう?」と彼女の考えていることを察しようとしても、彼女は先回りして「私が考えていること」を察しては正解を出してしまう。 >まるで出題者の意図を察知して答えを導き出す受験生だ。 >じつは、進学校出身の学生には、「指示待ち型」が多い。 >受験では、答えのある問題を解き続ける。 >すべての問題に答えがあり、あらかじめ解き方がある。
そうですね。そうでなければ採点者が困りますね。
>そして、それを要領よくこなしていく子が優秀と褒められる。 >おそらくは、それを繰り返しているうちに、否応(いやおう)なしに用意された答えを探す学生になってしまうのだろう。 >「私の中に答えはないよ。 >答えは満藤さんの中にあるのだから」 >しつこくそう言っても、満藤さんは私の中に答えを探しに来る。 >いかにして主体性を引き出すか >研究はわからないことを明らかにするという、ある意味で未知への挑戦である。 >指導教員であっても答えを持っているわけではない。 >指導教員と学生が共に、答えを探し求めなければならないのだ。 >それが、研究である。
そうですね。答えが無ければ、答えを作る。これが創造ですね。研究者の目指すところですね。
>もちろん、研究だけではない。 >世の中は「答えのない問題を自分で作り、答えのない問題を解く」その連続だ。 >特に現代は、先のわからない時代と言われる。 >学生たちも卒業した後は、誰も答えを知らない世界で生きていかなければならないのだ。 >満藤さんは、研究もよくできるし、レポートを書かせれば文章もうまい。 >おまけに英語も得意だ。 >物足りないのは主体性だけである。 >いかにして、彼女の主体性を引き出すかが、私が彼女に対して考えていることだった。 >私は彼女を呼び出して、こう諭した。 >「満藤さんは、もっと主体的にやらないといけないよ」 >「ん?」 >私はそう言いながら、「何かこの言葉、おかしくないか?」――と、自分で自分のことがおかしくなった。 >だって、そうだろう。 >何しろ「主体的にやりなさい」は、それ自体が指示である。 >主体的にやりなさいと言われて、主体的になることは、もはや主体的ではない。 >「ん???」 >自主性や主体性って、いったい何なのだろう?
‘自主性・主知性’ は自分の意思で行動することですね。
>「主体的にやりなさい」は教育者として失格 >私は考え直した。 >本当は「主体的にやりなさい」と言った時点で、教育者として失格なのだ。 >学生たちが、自らやりたくなるように仕向けなければいけないのだ。 >私は彼女を呼び出して叱ったことを深く反省した。 >「満藤さん、ごめんね。今、言ったこと全部忘れてくれる?」 >満藤さんは、キョトンとした顔で不思議そうに帰って行った。 >さすがの満藤さんも今回ばかりは、私の考えてることがわからなかったようだ。 >しかし、心配はいらないものである。 >あの一件で、満藤さんは「ライス先生の中身はポンコツで、アテにならない」という大切な真実に、やがて気がついたようだ。
他人が教えてくれる内容はすでに知られている事ばかりですね。独創性の無い内容ですね。
>そして、自分で考えて行動するようになったのである。
自分の意思を表せば当事者・関係者となる。表さなければ傍観者にとどまる。
>そのことに気がついてからの満藤さんの成長ぶりは、本当に目を見張るようだった。 >先生をアテにせずに、研究を思うように進めて、最後には国際学会に先生を置いて出掛けていって、ひとりで発表をしてきた。 >「先生がアテにならないって本当に大切だな」と、しみじみ思う。
そうですね。他力本願・神頼みでは立つ瀬がありませんからね。
>私はいかに「教えない先生」になったのか >思い出すのは、私の学生時代だ。 >そもそも、私が雑草学を志したのも、先生が教えてくれなかったことがキッカケなのである。 >私は、畳の原料となるイグサをポットで栽培していた。 >ところが、ポットから、何となくイグサに似ているが、明らかにイグサではない植物が生えてきた。 >つまりは、雑草である。 >「先生、この雑草、イグサに似ているんですが何ですか?」 >さっそく、指導教授に質問すると、教授はこう答えた。 >「花が咲けば、図鑑で調べることができるから、花が咲くまで置いておきなさい」 >おそらくは、指導教授はその雑草の名前がわからなかったのだろう。 >もし、名前を知っていて、そう指示したのだとしたら、相当の名伯楽(めいはくらく)である。 >かくして、私はその雑草を花が咲くまで置いておくことになった。 >イグサがどのような成長をするかは、ものの本にくわしく書いてある。 >隣に生えている雑草は、どのような成長を遂げて、どのような花を咲かせるのか、まったく予想がつかない。 >私は雑草の観察に夢中になった。 >そして、知らず知らず私は雑草に興味を持つようになったのである。
‘好きこそ物の上手なれ’ ですね。
>このとき生えていたイグサ科のコウガイゼキショウは、私にとって記念すべき雑草である。 >もし、指導教授が「それはコウガイゼキショウというイグサ科の雑草だよ」と教えていたら、私はこの雑草をじっくり観察することはなかっただろう。 >その名前を覚えることもなかったかも知れない。 >おそらくは、その雑草を抜いてしまって、それでおしまいだったはずである。 >先生が教えてくれなかったからこそ、私は雑草の研究者になった。 >そして、私は「教えない先生」となったのである。
学問をするには謙虚な態度が必要ですね。 '私は、私が何も知らないということを知っている'。 (ソクラテス) [無知の知] 'I know that I know nothing'.
(略) >---------- 稲垣 栄洋(いながき・ひでひろ) 静岡大学大学院教授 1968年静岡市生まれ。 >岡山大学大学院農学研究科修了。 >農学博士。 >専攻は雑草生態学。 >農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、静岡大学大学院教授。 >農業研究に携わる傍ら、雑草や昆虫など身近な生き物に関する著述や講演を行っている。 >著書に、『植物はなぜ動かないのか』『雑草はなぜそこに生えているのか『イネという不思議な植物』『はずれ者が進化をつくる』(ちくまプリマー新書)、『身近な雑草の愉快な生きかた』『身近な野菜のなるほど観察録』『身近な虫たちの華麗な生きかた』『身近な野の草 日本のこころ』『身近な生きものの子育て奮闘記』(ちくま文庫)、『たたかう植物 仁義なき生存戦略』(ちくま新書)など。 > ----------
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