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2025年03月12日(水) 

 

>現代ビジネス   >「日露戦争」と「太平洋戦争」の大きな違いをご存知ですか…? 見落とされがちだけれど、じつは「重要な視点」   >講談社文庫出版部の意見・   >17時間・   

>司馬遼太郎の見識   

>2020年代に入ってから、疫病に戦争と、さまざまな災厄が世界に降りかかっています。   

>少し目線を高くして、巨視的にものごとを見る必要性や、「歴史に学ぶ」必要性を感じる機会が増えたという人も多いのではないでしょうか。   

>「歴史探偵」として知られる半藤一利さんは、なぜ日本が無謀な戦争に突っ込んだのかについて生涯にわたって探究を続けた作家・編集者です。   

>半藤さんの『人間であることをやめるな』(講談社文庫)という本は、半藤さんのものの見方のエッセンス、そして、歴史のおもしろさ、有用性をおしえてくれます。   

>本書には、作家・司馬遼太郎の見識の鋭さを紹介する章があります。   

>司馬が『坂の上の雲』に記した名フレーズを、その歴史的背景をおぎないつつ解説するという趣向です。   

>たとえば、司馬の記述を参考にしながら、半藤さんは、日露戦争と太平洋戦争の違いを以下のように描いています。   

>『人間であることをやめるな』より引用します。   

>***   

>もう一つ、有賀長雄博士に関連して、司馬さんもかいていることを引用し、さらに一言弁じておきたいことがある。   

>この有賀長雄を、乃木軍司令部付の文官として外征軍に参加させたところに、この当時の日本政府の戦争遂行感覚の特徴があるであろう。   

>日本政府は明治初年以来、不平等条約の改正について苦心をはらってきたが、そのためにはなによりも国際法をまもるということについて優等生たろうとした。   

>このたびの対露戦においても、   

>──国際法にもとるようなことがいささかでもあってはならない。   

>として、軍司令官たちに大本営は入念に訓令している。   

>有賀長雄が、乃木の国際法の幕僚としてつけられたのは、そのためであった。   

> ──「水師営」より   

>明治という時代を考えるときの楽しさはここにある。   

>国際人たらんとした明治の日本人の真面目さ、真摯さ、一所懸命さがすこぶるよく出ている。   

>そのいっぽうで、それにつけても、という情けない話がつぎにくるのが残念であるが。   

>それは何か? といえば、太平洋戦争の「開戦の詔書」に、当然なければならない根本的な一行がなぜないのか、という事実なのである。   

>すなわち、「天佑ヲ保有シ、万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本(帝)国皇帝(天皇)ハ……」と書き出しはほぼ同じながら(丸カッコ内が太平洋戦争)、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦における詔書はつぎのように明確に記している。   

>苟モ国際法ニ戻ラサル限リ、各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ、必ス遺漏ナカラシムコトヲ期セヨ(日清戦争)   

>凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ、遺算ナカラムコトヲ期セヨ(日露戦争。   

>これは第一次大戦もほぼ同じで、ただ「遺算」の上に「必ス」が付せられている)   

>このように、過去の外戦のときにかならず明示されていた“国際公法の条項を守れ”の一行が、太平洋戦争開戦の詔書にはないのである。   

>正しくいえば、昭和の指導者はこの一行を削りとって、テンとして恥じることがなかった。    

 

それは残念なことですね。   

 

>「世界に冠たる国民」というようなうぬぼれた、夜郎自大の精神がそれほど人間をお粗末にしたのかと、いまはただただ歎くばかりなのである。   

 

昭和の指導者は自分のやりたいことをやったのですね。   

 

>ページの余裕がないゆえ、削りとった経緯については略さざるをえない。    

 

われわれ日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任が無い。日本人は責任者捜しに苦労する。    

たとえば【英対する開戦の詔勅】では

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。   

となる。  

天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。  

 

責任のある者は信頼される。そして尊敬される。

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。だから信頼がない。一旦事が起これば、責任者捜しのために騒ぎが起こる。日本残酷物語の様な騒ぎになることもある。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

 

アメリカ人には意思がある。だから戦死者の自国を護る勇気を称える。

日本人には意思がない。だから供養をする。戦死者の意思を称えることもない。これはアニマルの供養と同じである。   

戦いの意味も無い。敵も味方もない。それで深刻な反省には至らない。そして過ちを繰り返す。        

 

>そして、もちろん、有賀長雄博士のような国際法の専門家が、陸海軍について戦場にいくようなことのなかったこと、こと改めてかくまでもない。    

 

意思の無い人間には責任もない。責任とは自己の意思を使って義務を果たす事である。日本人には意思が無い。だから、責任もない。兎角この世は無責任しなっている。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

自由とは ‘意思の自由’ の事である。日本人には意思が無い。だから自由そのものにも意味がない。

だが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は‘自由のはき違え’となるからである。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。日本人は昔の姿のままで不自由な生活を送っている。 

 

>***   

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数56 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/03/12 01:20
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