>現代ビジネス >明治天皇が「崩御」したとき、「日本国民」はどんな反応をしたか? 皇居の前に広がった「凄まじい光景」 >学術文庫&選書メチエ編集部によるストーリー・ >14時間・ >宮中の生き字引きの記憶 >平成の天皇(現在の上皇)の「生前退位」の話が持ち上がってからというもの、皇室という制度について議論が交わされる機会が増えました。 >皇室について知るためには、その歴史を知る必要があります。 >たとえば、これまで天皇という存在は、国民からどのようなものとして受け止められていたのか、という点。 >その一端が垣間見えるのが、天皇が崩御したさいの国民の反応ではないでしょうか。 >ここでは、明治天皇が崩御したさいの人々の反応に注目してみたいと思います。 >明治天皇が病をわずらってから崩御するまでのようすを詳しく報告した書籍に、坊城俊良『宮中五十年』があります。 >著者の坊城は、学習院在学中の明治35(1902)年、数え年で10歳のころに宮中に召し出され、「侍従職出仕」という役職につき、明治天皇に奉仕しました。 >その後、大正天皇や、その妻・貞明皇后(節子〔さだこ〕皇太后)にも仕え、50年にわたって宮中に奉仕した、宮中の生き字引きのような人物です。 >さて、明治天皇が崩御するまでは、以下のような経緯をたどります。 >明治45(1912)年7月19日深夜、明治天皇は高熱を発し、「御不例」……ふだんとはまったく異なる状態となります。 >診察がなされ、翌20日には、「尿毒症」で重態であるむねが国民に向けて発表されました。 >その衝撃はきわめて大きかったようです。 >坊城は、以下のように振り返っています。 >〈天皇御重患の報一ト度び発せらるるや、全国民は非常な衝撃をうけた。 >今日の世相からすれば、全く想像を絶したものがあったように思う。 >東京府下の各小学校では毎朝全生徒に、御容態を知らせ、当局から別段の通達もなかったはずだが、小学生までが御平癒を心から祈念し、謹慎祈願する有様であった。 >その他の、国民一般の憂慮心痛は当時新聞にも伝えられた通り、国をあげての憂いであった。 >はじめの間は、私などはまだ年少だったせいか、何の不安も持っていなかったが、日が経つにつれて、人々の面上に、覆い難き憂色を見るようになった〉(54頁) >坊城の筆致からは、当時の日本を覆った緊迫感、悲壮感、切迫感、陰鬱とした雰囲気などがまざまざと伝わってきます。 >国民の土下座姿 >そして7月30日、ついにそのときが訪れます。 >〈午前零時すぎ、御容態の急変が伝えられた。 >お仮床のおつぎの間に、あるいは御廊下に、私たちはぬかずいた。 >岡侍医頭は、御崩御を拝しとどけると、静かに皇后様の御前に頭を下げ、低い声で崩御を言上した。 >ローソクの幻影が小暗くまたたいた〉(55頁) >とくに目を引くのが、その後の国民の反応です。 >わずかな記述ではあるのですが、当時の空気をよく伝えてくれています。 >〈その頃、二重橋前は、悲嘆にくれた数多の国民の土下座姿で埋まっていた。 >天も地も、悲しみに閉ざされたような、真ッ暗な気持であった。 >天皇を追慕してやまざる国民の悲しみは、種々の形となって現れた。 >一部には侍医寮の責任を激しく問う人たちもあった。 >かつて明治の文豪漱石が「心」に書いた通り、輝かしい「明治の精神」は、天皇の崩御とともに終ったのである。 >世は諒闇(りょうあん:編集部注:天子が父母の喪に服すこと)となり、全国民は喪に服した。 >諸官庁は黒の掛紙を用い、印肉の色まで黒と変った。 >そうして大喪使の官制が発布されたのである〉(56頁) >二重橋前が「国民の土下座姿で埋ま」るという光景は、明治天皇がどのような存在として国民から受け止められていたかを、当時の人々の感情を含めて伝えてくれるようです。
そうですね。明治天皇は現人神ですね。
>この延長線上に現在の皇室が位置することを念頭に置いたうえで、わたしたちは皇室について考えるべきなのかもしれません。 >なお、明治天皇が崩御したさいの皇后(=昭憲皇太后)のようすについては、当時天皇家につかえていた女官である山川三千子の回顧録『女官』という書籍に詳しく、また、【天皇が「崩御」したとき「皇后」はどんな反応をしたか? 女官が目撃していたこと】の記事でもふれています。
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。
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我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。 「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)
日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
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日本の文化には形式 (儀式) があって内容 (教義) が無い。だからそれだけ余計に形式に拘ることになる。そして日本人は改革に対する抵抗勢力になりやすい。
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