>シュフーズ >堀江貴文氏の『東洋大学”Fラン”呼び』→卒業生の声「Fランではない」に”たった7文字”で反応…ネットでも”学歴”が物議に「AランクやBランクの大学出身でも仕事ができない人を見てきた」「大学のランクって就職する時に有利なぐらい」「大学の価値はランクだけで決まるわけではない」 >シュフーズの意見・ >1時間・ >堀江貴文氏の『東洋大学”Fラン”呼び』→卒業生の声「Fランではない」に”たった7文字”で反応…ネットでも”学歴”が物議に >17日までに、実業家の堀江貴文氏(52)が自身の公式Xを更新。 >静岡県伊東市の田久保真紀市長の学歴詐称問題に対して、自身の投稿に対する批判の声に言及しました。 >5月29日に就任した田久保氏は、就任直後に学歴詐称疑惑があることを記した文章が市議会に届いて議会にて追及。東洋大学を除籍されていため卒業証書が取得できなかったことを、今月2日の記者会見で明らかにしました。 >今月7日、市議会では百条委員会を設置。 >田久保氏を巡る一連の騒動で、堀江氏は「Fラン私大の学歴詐称なんかどーでもいいだろ」と投稿し、東洋大学関係者の可能性があるユーザーから批判の声が上がりました。
学校によって学歴詐称の軽重があるのですかね。
>堀江氏は自身の投稿に対して寄せられた声に対し、「東洋大学の卒業生を名乗る者から続々と『うちはFランではない』クレームメールが来るんだけど笑」と批判的な声が寄せられていることに触れ「どーでもええわ」とたった7文字で返答。
詐称がどうでもよくなるのですかね。それとも大学のランクがどうでもよいということですかね。
>ネットでは、”学歴”などについての物議の声が上がっています。 >このニュースに寄せられたネットの声 >・「AランクやBランクの大学出身でも仕事ができない人を見てきた」
AランクやBランクの格付けには厳格な定義があるのですかね。それは仕事の出来具合による判定ですかね。 あいまいな「上と見るか、下と見るか」の判定基準を種にしてすぐさま激論が巻き起こるのは、わが国民が議論好きな国民だからですかね。それとも恥の文化の国民ですからかね。 厳格な基準を土台にした議論を好まないところがいかにも日本人らしいところですね。暇つぶしになるのかな。
>・「大学のランクって就職する時に有利なぐらい」
この大学のランクはわが国だけのものですかね。それとも国際的な権威のあるものですかね。
>・「大学の価値はランクだけで決まるわけではない」
学生には価値あるランク付けが必要ですね。
>・「頭の良さと人間性は=とならない」
ランクは大学の質の良さではないのですか。頭とか人間性ではないでしょう。
>・「学歴が良い、出た大学のランクや偏差値が高いからと言って会社で出世したり立場を得られたりするわけではない」
なんの役にも立たないランクのようですね。
>・「学歴はあくまで個人の経歴の一部に過ぎない」
そうですね。学問は国際的な内容ですから、国際的視野に立った大学の格付けが必要ですね。
>出身大学にスポットを当てた投稿に対し、疑問を投げかける投稿が散見していました。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになっている。自己実現の妨げになっている。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) を果たすことに懸命になる。そして、かたい契りの義兄弟になる者もいる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。個性に焦点を絞ることのない人間比較の叙勲は国体 (序列国家) に関する国民の意識を高めている。
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