>読売新聞 >「あめりかに負けるものか」軍国少年の日記…寄贈の92歳「大人の言うまま、本心から思っていた」 >読売新聞によるストーリー・ >5時間・ > 大分県宇佐市の元教師佐田 宏規(ひろき) さん(92)は今年6月、戦時中の1944年(昭和19年)につけていた日記帳1冊を市教育委員会に寄贈した。 >当時の地域社会が垣間見える内容で、「子どもがどう戦争と向き合っていたのかを伝えたい」と話している。 >(大石健一) >身近に迫る戦争 〈「あめりかに負けるものか。」と思つた〉 > 44年6月8日のページには、そう記されている。 >当時、佐田さんは旧長峰村(現・宇佐市)の長峰国民学校(現・長峰小)の5年生で、「軍国少年だった」という。 >この日、神社の掃除をして登校すると、先生と思われる人物から「今日、お宮に行つて、さうじ(掃除)をした人は、米えい(米英)の子どもに勝つて居ます」と褒められたことへの感想だ。
鬼畜米英ですね。
>学校で戦争の話題は日常だったことがうかがえる。 > 日記は教師の父、守さんの言いつけで1年生の時に始めた。 >多くは紛失、焼失をし、残っていた同年4~11月の8か月分を寄贈した。 >縦20・5センチ、横15センチの西洋紙のノートに身の回りの出来事が鉛筆で詳しく書かれている。 > 戦時中、大分県内には大分、宇佐、佐伯市に海軍航空隊の基地が置かれ、攻撃目標になった。 >県史などによると、県下の空襲は約250回、攻撃を受けた回数は約85回。 >約5800戸が全半焼し、485人が犠牲になった。 > 44年当時はこうした被害の前だった。 >それでも日記からは、戦争が身近に迫る様子が伝わってくる。 > 4月29日の天長節(天皇誕生日)前日、食糧難の中でパンが配られる楽しみとうれしさをつづった。 > 〈だれもうれしがつた。 >ぼくはどんなぱんだらう、と思つた。 >さたう(砂糖)が入つておいしいだらうと思つた〉 > 7月18日、学校の「ひだ先生」の出征を書いた。 > 〈「ひだせんせいばんざい。」と三回叫んだ〉 > 〈せんせいは、「びやうき(病気)をしないで、じゆうご(銃後)をしつかりしてください。」と、いつた〉 > 8月13日には学校の卒業生を見送った。 > 〈みんなしがん兵ばかりだつた。 >ぼくもしがん兵にならうと思つた〉 > そして11月9日、出征した叔父が中国南部で戦死したことを知った。 > 〈ぼくをかはいがつてくれたをじさんがが(原文ママ)戦死したのではがゆかつた。 >(中略)このかたきはきつとうつのだ。
かたき討ちの戦争ですね。
>をじさんにつづくのだ〉 > 改めて日記を読んだ佐田さんは、「大人の言うまま、戦争に勝たないといけないと、本心から思っていた」と振り返る。
一億一心ですね。負ける戦争はやりたくないですね。
>一変した世の中 > 敗戦後、佐田さんはがらりと変わる学校や世の中を身をもって知った。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>大学卒業後に英語教師となり、高校などで教壇に立った。 >教室に戦意を高揚させる会話は、もちろんない。 >子どもたちは自分のような経験をすることはないだろうという思いで、定年まで勤めた。 > 戦後80年を迎え、平和のありがたさがこれからも伝わっていくのか、という不安が頭をよぎった。
戦中・戦後の混乱はテレビの朝ドラでやっていますね。
>手元で保管していた日記を「家にあってもやがて失われてしまう」と寄贈を決めた。 >佐田さんは、「多くの人が戦時下の子どもの日常を知るきっかけになればうれしい」と願っている。
それは良い考えですね。
>◇ > 宇佐市教委は日記を、8月末まで市民図書館で開いた企画展で公開した。 >今後は平和学習用の資料に活用するという。 >市教委社会教育課の安田晃子さんは、「授業に行けずに草刈りを手伝っていたなど、子どもたちの姿を具体的に伝えられる」と話している。
そうですね。戦時中は人手不足が激しかったですからね。
>子どもの視点リアルに 大人と異なる感受性 > 戦後80年の夏、戦時中の子どもたちが書いた資料の展示は、全国で行われた。 > 大津市歴史博物館は、同市の瀬田国民学校(現・瀬田小学校)の児童が文章と絵でつづった188日分の学級日誌を8月末まで展示した。 >疎開をテーマにしたのは名古屋市の「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」。 >大都市から地方に疎開し、空腹やいじめで厳しい生活を送った日記、回想記を11月9日まで紹介する。
外国には今でも厳しい生活を送っている人が大勢いますね。
> 戦時中の学校日誌などを調査している斉藤利彦・学習院大名誉教授(日本教育史)は「子どもは大人と異なる感受性がある。
子供の感覚には先入観がないから新鮮ですね。
>行政や新聞などの資料に加え、子どもの目に映った日常もわかれば、当時をよりリアルに知ることができるのではないか」と話している。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにしない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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