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2025年10月04日(土) 

 

>現代ビジネス   >ロシアはなぜ「戦争」をやめないのか…? ある「陸軍大将」が見た、ロシアの「変わらない本性」の正体   >潮書房光人新社によるストーリー・   >2時間・   

>ウクライナへのロシア侵攻は3年半以上に及び、収束の兆しもなかなか見えてこないのが現状だ。   

>なぜロシアは戦争をやめようとしないのか。   

>会津出身の陸軍大将、柴五郎の生涯とその時代を描き切った『守城の人〈下〉』(村上兵衛著、光人社NF文庫)が刊行され話題を呼んでおり、とりわけ、日露戦争時代に公然化したロシアの極東アジアへの領土的野心と現在の状況とを重ねてみる向きも少なくないようだ。   

>三国干渉、遼東半島の割譲、義和団事件などを通じて浮かび上がるロシアの変わらぬ"本性"を一部抜粋・再構成してお届けする。    

>不凍港が欲しいため三国干渉を主導   

>日本が下関条約を批准したのは1895年4月20日。   

>そしてその3日後には、ロシア、ドイツおよびフランス三国による干渉が、わが政府に突きつけられた。   

>三国は「極東永久の平和に対し、日本の遼東半島領有は害がある」として、その清国への返還を「勧告」してきた。    

>その音頭を取ったのはロシアである。   

>ロシアにとって極東の不凍港への進出は、いわば公然たる野望であった。    

>遼東が日本に占拠されては、かれの国策である朝鮮進出にも狂いを生ずる。   

>遼東半島の不凍港は、断然、ロシアのものにならなければならぬはずのものだった。   

>名目は勧告だが、内実は脅迫である。    

>日本はすでに、兵力のほとんどすべてを大陸に注ぎ込んでいて、本土は空(から)であった。   

>そして露、独、仏の東洋艦隊を相手に戦って、勝つことのできる海軍を保有してはいなかった。    

>この日本の窮状に対して、イギリスもアメリカもまったく冷やかだった。   

>清国は「眠れる獅子」ではなく、いまや「眠れる豚」であることが判明した。   

>その肉を分割し、分け前にあずかるのは極東の小国日本ではなく、欧米列強でなければならない。   

>事実、それから両3年のあいだに、ロシアは遼東半島を、ドイツは膠州湾を、フランスは広州湾を削り取る。    

>三国干渉に加わらなかったイギリスは、もっとも巧妙に均衡を名として香港の対岸の九龍半島と威海衛軍港とを、ちゃっかり奪い取った。    

>遼東半島を割譲させたロシアの“裏技"    

>ロシアは、清国を救援するという触れ込みで、強力な艦隊を旅順港に送り込んだ。   

>清国側もこれを盛大に歓迎し、彼らに期待した。   

>しかし、そのような状況は一週間とつづかなかった。   

>ロシア艦隊は、そこに錨を下ろすと、清国政府に対して旅順をふくむ遼東半島の割譲を申し入れたのである。    

>清国宮廷は震動した。    

>このとき実権を握っていた西太后も、これにはクビを縦に振るわけにはいかない。   

>しかし、ロシアは清国をよく研究していた。   

>ときの蔵相ウィッテは、李鴻章および財務大臣の張蔭恒(日清講和の第一回使節)に、それぞれ50万、25万ルーブルずつの賄賂を贈るのである。   

>二人は賄賂を懐ろにすると、宮廷を説得した。   

>「ロシアが強大な艦隊をもって迫っているとき、わが方にはこれを防ぐすべがない……」と。   

>清国は、ロシアの要求に屈した。    

>「一言の非難を浴びなかったのは、日本人だけ」と    

>義和団による騒擾は、母国を食いものにする欧米列強に対する、いわば民衆からの不満の地鳴りだったと言えよう。   

>こうして「西教排斥」のスローガンは、やがて「扶清滅洋」のスローガンへと昂揚していった。    

>『北京籠城』という本をまとめたピーター・フレミングは、こう記述している。    

>「戦略上の最重要地である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。    

>日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。    

>日本軍を指揮した柴五郎中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験もゆたかであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。    

>当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。    

>日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。    

>日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞讃の的となった。    

>籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである」    

>北京籠城における各国将兵の戦死率    

>一般居留民として籠城したアメリカ女性ポリー・C・スミスの記録も、半ばは伝聞の評判記だけに、かえってそのときの欧米人たちの雰囲気を裏書きしていると言えよう。    

>「柴五郎中佐は、小柄な素晴らしい人です。    

>彼が北京の籠城エリアで現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。    

>最初の会議では、各国公使も守備隊指揮官も、別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでした。    

>でも、今ではすべてが変わりました。    

>柴中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をふるい、偉大な士官であることを実証しました。   

>だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」    

>北京籠城における各国将兵の戦死率は、イタリア兵24パーセント、日本兵20パーセントで、粛親王府が最激戦正面であったことがしのばれる。   

>逆に飛び抜けて低いのがロシアの10パーセントだ。    

>そういえば、北京籠城戦でロシア兵が主役となった戦さは一度もなかった。   

>いよいよ北京籠城戦が終わりを告げようとしていたとき、柴中佐が耳にした最初の銃声は、ロシア軍がここに一番近い東便門を占領、それを目掛けて城壁の上からいっせいに放たれた銃声であった。    

>列国軍の会議では、夜明けとともに攻撃開始という協定が結ばれていたが、ここでもロシア軍は協定を無視した。    

>しかも自分たちに割り当てられた東直門を抛(ほう)り出し、他国軍に割り当てられていた外城の東便門にその夜のうちから攻撃を開始した。   

>この門は公使館区域にもっとも近い。   

>彼らは一番乗りの手柄によって、「戦後」の大きな発言権と分け前とを狙っていたのである。    

 

 ‘スターリン首相の人格は西郷南洲に似ている’戦時中の鈴木貫太郎首相   

日本人はロシア人が好きですかね。わが国の天皇制は共産主義とは相いれませんけれどもね。日本人はご都合主義ですね。これは無哲学・能天気の祟りでしょうね。         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数10 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/10/04 18:22
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