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2025年10月06日(月) 

 

>現代ビジネス   >国民の9割が賛成?「愛子天皇待望論」の前に本当に議論すべきこと   >三ツ谷誠 (IR評論家) によるストーリー・   >20時間・  

>「愛子天皇待望論」の背景にあるもの   

>しばらく前からネット空間を中心に巻き起こっている言説に「愛子天皇待望論」がある。   

>いや、それは単にネット空間だけの話ではなく、個人名こそ出した調査ではないものの、2024年などに共同通信や毎日新聞が行った調査でも「女性天皇を認めるべき」という回答が共同通信では9割、毎日新聞では8割、寄せられたという。   

>その裏側(表側かも)で盛り上がっている言説に秋篠宮家に対する、あるいは美智子妃に対する感情的な忌避の言説がある。   

>興味本位でそうした言説に触れられた方もいるかも知れないが、それは読者それぞれが自らのメディアリテラシーに照らし合わせて、その範疇で理解し、整理していくべき言説に感じられる。   

>ただ、小室氏と真子さまの一連の結婚にかかる騒動や報道、また紀子さまをめぐる宮内庁内部の報道なども併せ、秋篠宮家にこれから象徴天皇制を担う一家としての国民的な共感や好感が寄せられているとは言いにくい、主観ではあるが筆者はそう感じている。   

>一方で天皇家に対しての国民感情は(これも主観ではあるが)頗る良く、愛子天皇待望論の背景にあるのは、そうした国民感情であると言っても間違いではないだろう。   

>国民の総意、という日本国憲法の言葉が、ふと浮かぶ。   

>また、そこには皇室の存続を念頭にした議論があることも見逃せない。   

>讀賣新聞は常識として(産経新聞ほどではないが)保守に近いスタンスのメディアと考えられているが、その讀賣新聞が今年5月15日の社説で「男系男子にこだわり続ければ、象徴天皇制の存続は危うくなる。   

>女性天皇や女系天皇の可能性を排除すべきではない」と論じ、大きな波紋を呼んだのは記憶に新しい。   

>当日、讀賣新聞は他の面も大幅に割いてこの問題を扱っていた。   

>そして、そのために必要になるのは第1条に「皇位は男系の男子がこれを継承する」と書かれた井上毅の手になるとされる皇室典範の改正になるが、改正を議論すべき国会が、この問題に対しては積極的な議論を拒んでいること、基本的にそれは男系男子での皇位継承に拘る自民党の問題であること、を、暗に(いや明確にか)讀賣は非難していた。    

>明治政府の「物語」から抜け出せない日本   

>今回の総裁選でも靖国神社参拝の問題が討議のテーマとして取り沙汰されたが、「神武以来連綿と連なる皇統」など、自民党右派が拘る伝統とは、明治維新政府が中央集権国家を成立させ近代化を果たすために作り上げた「物語」に過ぎない。   

>大日本帝国憲法の発布により明治は専制国家から立憲君主国家に変わったと考えられるし、昭和天皇の戦争責任を問う議論についても、あくまで天皇は機関であり、戦争を止める力には限界があり、かつ彼はその制約のなかで最善を尽くした、という例えば社会学者の橋爪大三郎などの見解がよく引き合いに出されるが、しかし、一方で山県有朋の手になる「軍人勅諭」が示すものは、神としての天皇であり、その天皇が統帥権を持つ皇軍としての日本軍であり、そうした理解が我が国のどこかで底流のように流れ続けている。   

>だから、自民党右派がなおそうした明治維新政府の作り上げた「物語」のなかにいるのは、不思議なことではない。    

>いや、自民党右派だけではなく我々もまたそうした「物語」のなかに佇んでいる、と筆者は思う。   

>それは、本稿が触れる愛子天皇を巡る議論でも、愛子天皇を望むのか、どうか、という議論はあっても、戦後80年を経て、明治維新政府が近代化のために作り上げた「天皇を中心に置いた国家」という物語自体を問い直そう、という議論がどこからも聴こえては来ないからだ。   

>昭和天皇の戦争責任をマッカーサーが問えなかったのは、それが占領国を統治する上で現実的に機能する、と判断したためでもあったろう。   

 

そうですね。   

 

>また、天皇に人間宣言をさせることで、或る種のカルト集団だった軍部の残存勢力が二度と再び皇軍の栄光を夢見ることを封じたのは統治者として賢明だった、と評価したい。   

>だが、彼らには象徴天皇というカタチであれ、天皇制を残す以外の選択肢はなかった。   

 

そうですね。わが国は序列国家である。序列人間には天皇を頂点とする天皇制が一番分かりやすい。   

 

>だが、そこから80年という十分な歳月は流れたのだ。    

>皇室典範の改正、愛子天皇実現という議論以外に、本当に我々はこれから先も未来永劫、天皇という神話を国の中心に置いておくのかどうか、その議論をこそすべきではないだろうか。   

 

日本人という序列人間には序列制度が必要でしょうね。   

 

>「明治以降の近代日本の構想」を問い直すとき    

>なぜ、そんな議論を仕掛けているのか、と言えば、例えばそれは先日終了した朝ドラ「あんぱん」など、戦争を描いた作品が繰り返し我々に伝える「戦争は悲惨だ、戦争は二度としてはいけない」という願いに筆者が深く共感しているからになる。   

>戦争に巻き込まれ、召集され戦死していった若者の哀しみ、残された者の哀しみ、を思うとき、どんなに理性的に整理され責任はない、としたとしても、その名前の基に戦地に送られ、無惨な死に方をした若者や、戦場となった場所で兵士ではなく巻き込まれ死んでいったアジアの人々の無念さを思うとき、昭和天皇のいわば道義的な責任を、感受性の問題ではあるが筆者は強く感じる。    

 

日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任のない人間には信頼がない。信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵]  

 

>ただ、理性的に言えば、確かに機関としての天皇に戦争責任を問うこと自体が困難だ、という議論には頷くしかない。   

 

日本人には意思がない。だから意思決定に関する議論は難しい。  

 

>また、戦勝国として法の整理など遥かに超えた次元で、懲罰のようにその責任を追及できた進駐軍にしても、穏やかな占領統治のために天皇制を象徴天皇制というカタチで存続させたことも、歴史的な事実として受け止めるしかない。   

>しかし、戦後80年という十分な時間を経て、なお皇室存続のためには皇室典範を改正させないといけないという議論を保守系のメディアが行うこのタイミングこそ、改めて「皇室を中心に置いた明治以後の我が国の近代の構想の是非」を問うべきではないだろうか。   

>逆にそこを問わないと、なぜ戦争に至ったのか、という日本の近代の歪みそのものを考えることも、是正することも叶わないのではないか、と感じる。   

 

日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、日本人は事の次第と成り行きで物事を説明する。意思が入らない説明は子供の説明の仕方である。   

 

>なぜなら皇室の神話性はいまなお我々を縛り付けているからだ。   

>明治維新政府の創作した物語は我が国に息づいている。   

>それは皮肉にも讀賣新聞が批判する自民党右派が、その物語の根幹を成す皇室典範改正の議論から背を向けていること1つにも見て取れる。   

>いやそれ以上に、無批判に皇室の存続そのものを問うことなく、女性天皇、女系天皇を認めるかどうか、にいきなり議論を飛ばしてしまうマスコミや、皇室にかかわる議論について及び腰になり、流される映像は嘗ての大本営発表を垂れ流したラジオ放送に近い、宮内庁に主導されたかのような「皇族のご訪問報道」を繰り返すテレビニュースが、それを証明している。   

>誰が決めたのか、それすら分からない自己規制の力を、「畏れ」を、筆者はそこに感じてしまう。   

>「我々のなかの天皇」にどう向き合うか   

>その意味で思い出すのは、まさに昭和天皇が崩御し、平成に年号が変わった、その1週間の我が国の「自己規制の異常さ」だ。   

>平成生まれが社会の中核を成していくなか、記憶している人も減っているが、その1週間、テレビは全ての娯楽番組を止め、お祭りやイベントは全て自粛され、国民がまさしく喪に伏した。   

>恐ろしいのは、それは法律にではなく、自粛によっていた、ことだ。   

 

それは同調圧力によるものでしょうね。   

 

>現代にありながら、象徴天皇制の下、国民主権の議会制民主主義国家であるとされるこの国が、なお一人ひとりの中に明治政府の創作した物語を抱え、皇室の不幸を自身の不幸として行動や言動を控えるなにかを持っている、戦争を語り継がなければならないように、あの1週間の日本についても、本当は併せて語り継がなければならない筈だ。   

 

日本人には現実 (事実) があって非現実 (考え・哲学) がない。だから日本人は現実肯定主義者になっている。訳 (非現実) を話しても通じない。それで改革に対する抵抗勢力になっている。現実肯定主義には進歩がない。    

都知事も女性、首相も女性、天皇も女性になるか。 ‘女性の社会進出’ は政治哲学の中にある。    

 

>そして、そう考えると問うべきは、「我々のなかの天皇」であり、我々がもともと体質として持つ全体主義的な気質そのもの、にもなる。   

 

日本語文法には階称 (hierarchy: 言葉遣い) というものがあるので、序列思考はやめられないですね。意思がなくて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) と人情 (私意・我儘・身勝手) がある。   

 

>愛子天皇を待望する前に、考えるべきは、そうした根本ではないのか、と思う。   

 

そうですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>筆者は昭和のサヨクのように皇室の廃絶やできはしないだろう共和制の実現を願うものではないが、仮に皇室の存続を願うとしても、無自覚に無批判にそれを所与のものとはせずに、こうした議論を前提にして、或いは議論の前の内省<我々は「我々のなかの天皇」にどう向き合うのか、二度と「押し付けられた戦争」(自らが選択し立ちあがる戦争ではない)に引き摺り込まれないために>を行ったうえで、その存続を願うべきではないか、と感じている。   

 

日本人には意思がない。だから指示待ち人間になっている。個人を育てるためには英語を使って考えることも必要ですね。      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数6 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/10/06 04:16
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