宇治市のお隣、伏見の話です。寺田屋や竜馬通りにほど近い蓬莱橋のたもとに、大きな石碑が建っています。 昭和3~5(1928~1930)年、御大典(昭和天皇即位)を記念して宇治川派流の護岸工事と周辺の宅地開発が行われたことを伝える碑ですが、碑文の最後に「伏見市長 中野種一郎 建之」とあります。京都府紀伊郡伏見町が京都市に吸収される計画が持ち上がった際、伏見の住民の中には反対の声が多かったようです。酒造業で自立してきた伏見が、長きに渡って京の町をライバル視していた歴史が背景にあったのでしょう。そこで、一時的に市制を敷いて、吸収ではなく、市と市の合併であるという体裁にしたようです。その計画を中心になって押し進め、自ら市長になったのが中野種一郎でした。市制が行われたのは昭和4(1929)年5月1日から昭和6(1931)年3月31日までのわずか2年弱。日本の歴史のなかで最も短命な市だそうです。しかし、伏見の人々にとっては、一時的にしろ市になったことが誇りだったのでしょう。今も伏見市と書かれたものが数多く残されています。《伏見区革屋町に残る境界杭》 《「伏見市」と書かれた琺瑯の町名看板(いわゆる仁丹看板)》 【おまけ】町名看板を探す中で、「伏見町」時代のものを見つけました。「字 土橋 /伏見町靑年團」と手書きで書かれています。 伏見を散歩することがありましたら、ぜひ探してみてください。