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2007年09月27日(木) 
今日は横浜市郊外の住宅に米軍機が墜落して住民死亡
から30年経つ。

現在の横浜市青葉区荏田3丁目(当時は緑区荏田町)の
住宅にファントム偵察機が墜落。

その家の子供2人は即死。母は全身火傷で重症、3年後
その後遺症で死去。

ファントムの乗員2名はパラシュートで脱出して無事。
自衛隊のヘリがこの2人を収容も住民は放置で避難と
なる。
日米の協定ではこれが当たり前。

そんな日本の現状は30年後もそうは変わらない。

未だに進駐軍としての米軍(日本の要望でいることに
なっているが)は健在ということです。

神奈川県は沖縄県に次いで米軍施設が多い。
厚木航空基地は自衛隊も使用するが米軍の想いのまま。

イラク侵攻1次の時は、茅ヶ崎の台地すれすれに米軍
戦闘機がえぼし岩方向へ飛行訓練をする。
先般のイラク侵攻前は5機編隊を2機の指令機が指導
して我が家の上空(茅ヶ崎のダウンタウン上空)を昼間
バンバン飛行する。
さすがにマッハ音(バーンと凄い音で地面が揺れる)は
この10年は発てないように留意はしているが。

1970年代は茅ヶ崎の甘沼などの台地でマッハに達して
爆発音を残すのは当たり前でした。
その一連の飛行訓練での犠牲が横浜の3人。

他人事ではない!

日米軍事協定は防衛の為に必要不可欠という態度を政府が
取る限り、このような事故は何処でも起きる。

この犠牲者のことは忘れないでいて下さい。

横浜の「港のみえる丘公園」にこの3人を追悼した『愛の
親子の像』がある。

1985年設置で由来の説明板は2006年に付く。
このタイムラグは微妙な政治情勢を示すが、まずは由来板
が付いてこの事件を忘れないようになったのは喜ばしい。

画像:未だに改良型が自衛隊で使用されるファントム機
この偵察機RF4Eは1974年から75年配備のもので
事故機と同タイプと想われる。
松島基地で2004年7月撮影(ARUMU28さん)


閲覧数1,094 カテゴリ日記 コメント4 投稿日時2007/09/27 15:04
公開範囲外部公開
コメント(4)
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  • 2007/09/27 18:52
    あの親子像はそういう歴史が・・・
    見たときにはきっと読んでいたんでしょうが、もう忘れてしまっていて、あの親子像が記憶に残っています。
    はじめて沖縄に行った時に、基地のある場所の辛さを知りました。なれるとはいえ、いつ飛び込んでくるかいつ落ちてくるか、落ちないとか何の保証もないのに爆音立てて飛び交っている・・・これが安保か、これが敗戦国か・・・とつくづく感じたものです(二十歳の頃)
    次項有
  • 2007/09/27 21:03
    ニュース覚えています。
    悲しさと怒りで見てました。

    京都も戦後は進駐軍の基地がありました。
    動物園が半分、進駐軍に占領されていました。
    鉄兜、カーキー色の軍服は子供心に恐くて近寄れませんでした。
    父に抱かれて歩いていたら、アメリカ兵に呼び止められ、ガムをもらって頭をなでられました。
    子供心に、この人もお父さんなんやな~と感じました。
    茅ヶ崎の上空も訓練空域に入っていたのですね。
    今日はその日でしたか。
    次項有
  • 2007/09/28 00:30
    あきこさん
    あの悲惨な事故のニュースをよく覚えています。

    何でこんなかわいそうな目に遭わねばならないのかと怒りを覚えました。
    もしも私の娘がこのような目に遭ったら私は気が狂うのではないかと思いました。

    あれから30年ですね。
    乗員2名パラシュートで脱出後、機体が5kmほど離れた住宅街に墜落し、墜落地周辺の火災で、二人の兄弟が亡くなり、兄弟のお母さんは事故後皮膚移植手術を繰り返し、長期入退院の末、呼吸困難により死亡されたのでしたね。

    死亡された日、午後7時のNHKニュースで、お母さんが亡くなったことを報じた女性アナウンサーがニュース原稿を見ながら泣きくずれたことが印象に残っています。夕ごはん前にニュースを聞きたくてテレビのスイッチを入れて、まだ幼かった娘といっしょに見ていたときでした。

    あのブロンズの母子象は遺族が寄贈したのでしたね。
    説明板設置の21年ものタイムラグは、
    行政側が都市公園法の解釈を理由に、説明の設置を認めなかったのです。遺族側が「あふれる愛をこの子らに」と予定していた台座の文に関しても同法に抵触すると主張したそうです。予備知識がない限り記念碑の意味がわからない状態でした。

    まだ記憶に新しいのですが
    2005年2月の横浜市長定例記者会見の中での回答以降、翌2006年1月に事件の概要を簡潔に記述した碑文が設置されました。
    事故を風化させないために碑文が設置できたことは本当によかったと思います。

    30年経った今も、米軍施設周辺では飛行機が墜落しないという保障はないのです。

    かけがえのない人の命、
    本当に豊かな国とはお金持ちの国ではなく
    命を大切にする国だと思います。

    よっちゃん、
    私も同じようなことを覚えています。
    家の離れは進駐軍の家族の住まいとして占領されていました。
    進駐軍の兵隊さんは体が大きくて(自分が小さかったから大きく感じたのでしょう)、何だかわけのわからない言葉(英語)を喋って、ジープから降りて近寄ってくると怖くて体が固くなったのを覚えています。
    次項有
  • 2007/09/28 16:50
    皆さんの中にそれぞれの想いがある。

    この家族のお爺さん(奥さんの父)も病がちですが
    生存されており、京都の皆さんの中にクツキリと記
    憶されていることを喜ばれると想います。
    ありがとうございます。

    風化してよいことと良くないことがある。
    この事実は風化しないで語り継ぐべきことの一つ。

    あきこさんが詳細を記して下さりありがとう。

    僕は進駐軍は怖くなくて何時もワイワイでした。
    中国の東北部から来たから、同じ外人?意識が
    あったのでしょうか。

    人と馴染まないと生きてゆけないというのが教訓
    になっていた(今もそれはある)。

    アメリカ好きのアメリカ嫌いというのも戦後の色
    々と付き合った結果のようです。
    アメリカは暮らすと田舎そのものでした。
    大都会でもそうだった・・・と想う。

    23万人の中核都市「茅ヶ崎」は良く似た町です。
    次項有
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