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2017年02月25日(土) 

 



>残念ながら、日本には胸を張って「勉強している」と言える学生は多くはない。>だからこそ、「学生に勉強をさせろ」というのは、当然の主張だ。


何を勉強させたらよいのでしょうかね。


>しかし、学生が勉強しないのは、単に怠惰だからではないのではないか。>、、、、、、成績や専攻を軽んじる社会では、大学で勉強する必要がないのだ。

 

我が国には教養というものが無いのですから、成績も専攻も気にならないのでしょう。

 

>なぜなら、まだまだ就職時に大学名や大卒資格を重視する学歴主義が残り、大学教育の中身自体が信用されていないからである。

 

大学教育の中身自体を評価する伝統はありませんからね。大学名や大学資格は、有難いお経のお題目のようなものかもしれない。

 

>偏差値が違う大学の成績を比較することはできないため、大学名を重視するのは、ある意味合理的かもしれない。

 

偏差値信仰と大学名信仰ですね。信仰の国・伝説の国というところでしょうかね。ああ、むなしい。

 

>また、有名大学に合格した学生を評価すること自体が間違い、というわけでもない。

>とはいえ、大学名で学位の価値が決まるのなら、学生が「なにも入学してから必死に勉強することはない」と思うのは仕方ないことだろう。

 

もっともなことです。何も勉強したくて入学したわけでもない。必死に勉強することもない。だから、キャンパスでは、退屈男・退屈女となります。遊んで暮らすのか。

 

>「学生が勉強しない」ことの根本的な問題は、「学生の勉学に対する姿勢」ではなく、大学名を重視する学歴主義や、大卒であるという事実だけを採用の指標にする考え方にある。

 

権威主義ですね。それ以上の判断材料が無いからでしょう。

 

>求められているのは、「学生が勉強しないから卒業を難しくする」といった、その場しのぎの対処療法ではない。

 

同感です。原因がわからないから、対症療法になるのでしょう。原因の究明と原因療法の開発が必要ですね。

 

>「大学で勉強した内容を評価する社会」への、評価基準の本質的な変革が必要とされているのだ。

 

そうですね。同感です。無哲学・能天気の日本人社会では、英米流の高等教育の内容は評価されませんね。海外で本格的に高等教育を受けた者は、日本人社会で浮き上がってしまいます。だから、評価基準の本質的な改革が必要ですね。

現実の考えは、実学 (技術) となる。その内容は、頭の外側にある。見ることが出来る。見ればわかる。内容は万人共通である。内容が低俗である。世渡りの方法となる。処世術は、今だけ・金だけ・自分だけとなる。残念ながら料簡が狭い。

非現実の考えは、哲学 (教養) となる。その内容は、頭の内側にある。見ることが出来ない。話を聞いても理解できないこともある。個人・個人でその内容が違う。内容が高尚である。人生の指針となる。個人の使命は、永遠・理想・全世界に展開する。政治に必要な構想である。この哲学が無いと国民は政治音痴になる。だが、他方では、理想に倒れる危険も存在する。

 

理想に倒れるということは、現実に倒れることでもある。理想 (非現実) と現実の折り合いを付ける事が我々には難しい。その悩みが人生そのものである。職業に貴賤はない。だが、人の一生には貴賤がある。人生は中庸の徳を求める旅でもある。未来の我が国を有徳の国にしよう。

 

 

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閲覧数475 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/02/25 11:37
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