>経済活動の時間は外在的な時間であるために時計で計ることができ、世界中の人びとが共有できます。 >そのような時間は、ベルクソンによれば「現在」という点の一次元的な集合であって、現在、現在、現在・・・・と瞬間が切れている現在の集まりなのです。
日本人が、’まだか、まだか、まだか・・・・・’ といらいらしながら待つことですね。ナウな感じがしますね。一寸先は闇、過去は疾く風化する。
>そのように切れていることによって、開始と終了の時を計ることができるので競争の勝ち負けを決めるために使うことができます。 >ですから、外在的時間は「競争の時間」でもあります。また、同じ理由によって利子の計算に使うこともできます。
‘今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術の応用で勝ち負けが決まる。 >その実態は、主客の二つに分離できない自己の〈いのち〉そのものを感じていることから現れるものですから、外に取り出して測定することはできません。 >それは居場所において生きているときに感じる時間、すなわち「生存の時間」なのです。
悠久の大河の流れを前にしているようなものか。日の下に新しきものなし。
我々は、勤め人のように時間を売って生活しているのですね。’競争の時間’ の中にも、’命の洗濯’ をする時間が必要になりますね。
時間を売ることなく生活できると良いですね。我々にとっては、定年後の生活のようなものか。楽しみですね。
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