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2017年05月24日(水) 

 

 

>1970年を境とした変化は、国際的な経済競争の激化と産業構造・企業活動・仕事世界の流動化・複雑化、豊かな情報消費社会の進展とライフスタイル・価値観の多様化、、などといった変化の類なのだろうか。

 

実学 (技術) の発展でしょうね。我が国においては、人手不足はたくさん耳にするが、頭脳不足はとんと聞いたことが無い。頭脳労働に焦点が合うような国ではない。

 

>明治の近代化以降、西洋の近代思想を輸入し、国家を挙げて市場拡大に躍起になった。

 

自由・人権の拡大、自我の解放、個の確立といった近代思想は、有難い経典のお題目の様なものであって、現実の市場とは関係が無かった。

 

>誰もが豊かさを求め、近代思想をバイブルとし、勉強に励み、受験戦争を勝ち抜き、市場の牽引車になっていった。

 

序列競争は、物質の豊かさの獲得競争に変身していた。バイブルは知的改善には役に立たなかった。

 

>日本においては1970年頃、ついに豊かさを実現した。

 

正確には、物質的豊かさを実現した。ということでしょう。

 

>つまり、豊かさ追求の方程式は成立しなくなった。

 

教養の豊かさは、理解されずじまいとなった。哲学は、空念仏のまま捨てておかれた。

 

>かつては、時代の要請は先進国の仲間入り、豊かさ追求にあった。

 

我が国は、経済大国として先進国の仲間入りができた。しかし、人間として大切な尊敬というものは得られなかった。

 

>だからこそ、それに応じた学術が必要とされたに過ぎない。

 

豊かさ追求のための学術とは、実学 (技術) のことだったのでしょうかね。学術は、学問と技術でしょう。

 

>そうである以上、今現在の社会の要請は何か、人々の期待は何か、そこに応えていくのが学術の役割であり、教育の存在意義である。

 

我が国には、なんでもある。ただ、夢と希望がない。夢・希望は非現実の内容です。それは、哲学の内容です。だが、無哲学・能天気の民には、その期待はできない。応えることもできない。

 

>「21世紀の教養と教養教育」は大学教育のカリキュラムへと提言が続くが、まずもって学術界を牽引してきた学者自らが、その拠って立つ思想を総括し、人類史に遡り社会構造を解明し、今後の社会をつくっていく新たな理論構築をすべきであろう。

 

日本人には、非現実の内容は想定外になっています。非現実は現実ではない。だから、非現実には実感がない。哲学は、きれいごとになる。

人類史は過去の内容、今後の社会は未来の内容ですね。かような非現実を、学者自らが理論構築をすることは出来ないでしょう。日本語脳内では、それは真っ赤なウソになる。

 

>それ無しにこれまで同様、近代思想を大事にしたままの教育を続けても全くもって意味がないどころか、ますます迷宮に入るだけである。

 

 近代思想の勉強は、意味の解らぬ経典を暗記するようなものですね。平和憲法が日本の平和を守ると信じるようなものでしょうか。ますますの迷宮入り。

日本人には非現実の文章ができないのであるから、非現実の内容は日本語脳には定着しません。意味もないから、その矛盾さえも指摘できません。疾く風化します。これを雑念というのかな。

哲学は、日本人には信じられない。その場限りの方便となる。箔がつくのか、浅はかな人生か。

 

 

 

 

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閲覧数735 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/05/24 20:21
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