>大学は、専門家を育てる機関である。
大学は、教養を身につけるところではありませんか。
>大学は、スペシャリストを養成するところである。
高度な職業人は、大学院で育成されるのが良いでしょう。大学では教養をつけます。
>ゼネラリストを養成するところでもなければ、そのノウハウもない。
ゼネラリストには、教養が必要ですね。正しい (矛盾の無い) 考えをするノウハウは非常に大切ですね。
>ゼネラリストを養成するのは、現実の社会である。
ゼネラリストには、教養の裏付けが必要でしょう。実社会で教養をつけるのは、非常に難しいことですね。
>中卒、高卒が経営者となり、大卒が、その専門知識を生かした補佐をする。>なぜならば、大学を出ていない人間は、専門知識がなくても、世の中で生きていく実力がある。
実力とは、処世術のことですか。それだけでは、十分な人生ではないでしょう。
>現実の社会は、知識より経験がものをいうからである。
経験も知識も必要ですね。
>実力がある者は、早く社会へ出て社会の役に立ちたいと思うものである。
そうかもしれませんね。
>また、人間関係や、取引、駆け引きを覚えて一人前の社会人になりたい。
もっぱら処世術に専念していますね。
>実際に、以前は、家が貧しい家庭は、早く社会に出て、家計を少しでも楽にしたいと考えた。>役に立たない学問は、仏様だと考えた。>それが健全な発想である。
無哲学・能天気は、残念なことですね。
>意味もなく、進学するのは、時間の無駄である。>学問を過大に評価しすぎる。
学問は、学問でしかありませんね。過大評価は良くないですね。
>角界では、それが常識である。>相撲の社会では、自分が現役で相撲を取れる時代が限られている。>だから、尚更のこと、はやく土俵に立ちたがるのである。
そうでしょうね。しかし、全ての人が角界で活躍するわけではありませんからね。
>しかし、それが、本来の社会の在り方である。>学問には、学問の目的や役割がある。>しかし、それは、万人に必要な者ではない。>ごく限られた者に必要な事である。
哲学は、万人に必要ですね。(Everyone needs a philosophy.) そうでなければ、我々は烏合の衆になります。自分自身の判断というものが必要です。
>教育というのは、学問を教えることではない。>生きていく為に、必要な事を学ぶのである。
そうですね。学校は、学び舎とも言いますね。
>学問は、教わる者ではなく、学ぶ者である。>学ぶことができない者は、大学へ行くべきではない。
それはそうですが、やってみなければ分からないことですね。
>受験勉強と大学時代という人生における最も大切な時間を無駄にするだけである。
大学で遊んでいるのは、無駄なことですね。
>仕事に必要な事を良く知っている人間に出逢うと、あの人は、よく勉強していると誉める。
そうですね。
>しかし、仕事に必要な事でないことばかり知っていて、肝心の仕事に関する知識や経験、技術が乏しい人間を、現実の社会では、よく勉強しているとは言わない。>ハッキリ言って馬鹿である。
そうかもしれませんね。
>しかし、学校は、正反対である。>要するに、馬鹿を育てるのが、今の学校である。
あまり勉強になりませんからね。
>だから、本当に実力のある人間は、大学に行かない。>いく必要がない。
本当の実力にもいろいろありますがね。
>必要があるとしたら、卒業証書と資格だけである。
卒業証書も、ただの紙切れでないと良いのですがね。
>ところが、現代社会は、学歴で差別する。
‘上とみるか、下とみるか’ の判断に、学歴を使いますね。上下の簡便法になっていますね。
>だから、必要もない人間まで、大学を目指すようになった。>それが間違いなのである。
そうですね。これは序列社会の根本的な間違いですね。
>養老孟司も「馬鹿の壁」の中で言っている。>大学へ行くと馬鹿になるといわれたと。>それは、以前は、社会の常識だったのである。>職人のなるのに学問はいらない。>一つの慧眼である。
今日の社会でも、人手不足の話はあっても、頭脳不足の話はありませんね。頭を使わない風潮は、困ったことですね。
>学問をしたからといって世故に通じるわけではない。>世間知らずになるのがおちだ。
学問の内容は哲学 (非現実) であり、処世術 (現実) にはなりませんね。
>不必要に理屈ばかり覚えて、道理の解らない人間になっては困る。>ならば、職人に学問はいらない。
職人であっても、道理のわかる人になってもらいたいですね。
>昔の親は、大学なんて行く必要はない。>嫌なら行くな。>大学なんて行かないで働けと言い切っていた。>立派である。>親としての義務と責任を果てしている。
本人次第であるが、無教養とは残念なことですね。
>今の親は、大学を出せば、自分の責任は、果たせると思っている。>実に無責任である。>子供の人生に全く責任を持っていない。>大学に行きさえすれば、後は、のたれ死んでも知らないと言っているようなものである。
何せ、無哲学・能天気の社会ですからね。教養を受け付けません。野垂れ死ぬ可能性も無きにしも非ずですね。
>それに、大学には、行く気になればいつでもいける。>一度社会に出てからでも遅くはない。>働きながらでもいける。>学を志せば、いつでも行ける。>大学とは、そう言うものだ。>義務教育とは違うのである。
そうですね。大学は生涯教育の場ですからね。
>社会経験の方が、書物から得る知識より実社会には、有効である。>その暗黙の了解がある社会は、健全である。
人手を介さない経験は貴重ですね。現実直視が出来ます。
>そこから、男は、度胸という発想が生まれるのである。
この意味は、良く分かりませんね。
>また、教育制度の弊害がはびこる以前に作られた制度や実力的社会では、学歴よりも実力が優先されている。
序列社会の順位付けのことですね。相撲取りの世界の様なものか。全体が太い枠の中に閉じ込められている。つまり、その発想がグローバル (全地球的) でも、ユニバーサル (全宇宙的) でもない。小さな殻の中に閉じこもっている構図ですね。世界観を持たない日本人の欠点だと思うのですが、どうにかならないものですかね。 教育制度を弊害としない考え方が必要ですね。世界に通用する教育制度にすることが、何よりも大切ではありませんか。英語の勉強にも力を入れれば、我々にも世界観を持つことも可能になるし、外国人とも議論が可能になります。国際協調により、我々日本人も世界により多くの貢献ができることになるでしょう。日本人の技術を目先手先の成果に終わらせないことが大切ではないでしょうか。
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