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2018年03月14日(水) 

 

 

>だいたい、勉強といえば本を読むことだと思っていること自体が大間違い。>知的な活動の根本は記憶によって得られる知識ではありません。

 

そうですね。本を読むと言えば、二宮金次郎をイメージしますね。歩きながら本を読む。歩きながらスマホをいじる。他人の手を介さないで得られる生の経験が必要ですね。

 

>試験の成績がいいことを才能だと、日本人は考え違いをしている。

 

試験の成績で席次争いをする。天下の秀才が生まれる。小さな体に、大きな望み。処世術に長けていることも才能のうち。いや、このほかには才能は無いのでしょう。

 

>他の人が知らないことを知っていたりすると、優越感を持ったりするでしょう。>本好きな人は知識があることで人間的にどんどんダメになっていく。

 

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。礼儀作法は、序列作法になっている。だから、人を見損なってはいけない。このような事情により、’上と見るか、下と見るか’ の判断は、日本人の強迫観念になっている。序列人間であるために、’上と見られた’ ときの優越感もひとしおです。ソクラテスには、’無知の知’ というものがありますね。

 

>知識と思考力は反比例します。>知識が多い人ほど考えない。>知識を自分のもののように使っていると、物マネ癖がついてしまいます。

 

詰め込み主義の勉強が盛んなために、我が国には多数の評論家が生まれます。彼らは、受け売りの専門家であります。独創性が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

>多くの知識を詰め込むことが評価されがちな日本だが、本当に大切なのは思考力。

 

我が国の ‘生き字引’ は、電算機に勝つことができるのか。人工知能は、独創的な思考力を持つようになるのか。

 

>他人が考えた知識や思考を真似ることではない。

 

猿まねは、我が国のお家芸である。わかっちゃいるけど、やめられない。

現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣である。

非現実 (考え) の内容を現実に実現できれば、それは創造力を発揮したことになる。

特亜三国 (日本・中国・韓国) の民は、模倣が得意で、想像力に弱い。それは、非現実 (考え) の内容を文章にすることが出来ないためであろう。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。文章には意味がある。矛盾があれば、それを他者が指摘することも可能である。だから、議論ができる。

矛盾を訂正すれば、正しい考えになる。矛盾のない考えは、すべて正しい。だから、正解は唯一ではない。それぞれの内容の違いは、個性の表れと考えられる。

個性の競争は楽しく、没個性の競争は、受験競争の様なもので激しく、苦渋に満ちた地獄になる。

 

>人間、知識をため込むだけではダメ。>生活に根ざした自分なりの考えを持ってこそ人間なのです。

 

そうですね。各人に哲学が必要です。Everyone needs a philosophy. そうでなければ、我が国は、烏合の衆の民主国になる。 無哲学・能天気の国よ、さらば。

 

 

 

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閲覧数1,223 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/03/14 00:14
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