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2018年05月23日(水) 

 

>「道徳の教科化」は、2020年を目処に進む学習指導要領の改訂のなかで、2018年度から先行して始まった(小学生のみ、中学校は2019年度から)。授業時間数は1年生から6年生まで週1時間であることに変わりはないが、道徳が「特別の教科」になることによる大きな変化は2つある。>第一に、道徳の授業で文部科学省の検定が必須の「教科書」が用いられるようになること。第二に「評価」が行われるようになることだ。この2つの変化が子どもたちにどのような影響をもたらすか、今回は考えていきたいと思う。

 

修身の教科書は、戦前もありましたけれどもね。立派な軍人の話が出ていました。

 

>□「道徳の教科化」の本当の目的とは?>文科省は道徳の教科化の目的として、第一に「いじめ問題の対応」を挙げている。

 

人間もアニマルも、恣意 (私意・わがまま・身勝手) による ‘いじめ’ の勝敗結果により序列の順位を定めます。人間が、アニマルを超えることができるかどうかですね。

 

>しかしその裏には、政府の別の思惑が見てとれる。

 

政治家が、教育を指導するのですね。

 

>「学習指導要領解説 特別の教科道徳編」の第1章の1改定の経緯には、学校教育における道徳教育の使命として下記のことが掲げられている。>我が国の教育は、教育基本法第1条に示されているとおり「人格の完成を目指し、 平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われる」ものである。

 

そうですね。でも、政治家が教育に関与するのはよくないですね。教育が、政治家のご都合主義に流れるでしょう。皇民化教育の前例もあります。

 

>人格の完成及び国民の育成の基盤となるものが道徳性であり、その道徳性を育てることが学校教育における道徳教育の使命である。

 

無哲学・能天気な国民性では、道徳性も高くはならないでしょうね。紋切型になる。

 

>以上をお読みいただき、それのなにが問題なのか?と思う方も少なくないだろう。

 

そうですね。わが国には、個人主義が浸透していませんからね。

 

>道徳で指導される中身を見てみても、小学校で習ったこと、あるいは家庭で親御さんがお子さんに伝えていることと重なる、そう思われる方も少なくないだろう。

 

どこに行っても話の内容は同じになりますね。没個性的ですね。

 

>しかし問題なのはこれを「国」が「制度」として導入しているというところなのである。>「人格の完成」や「道徳性」とは何かを、はたして国が上から定めるべきものなのだろうか。

 

そうですね。ロボットの設計図のようなものになるでしょうね。

 

>それを行き過ぎた行為と思うかそう思わないかはおそらくそれぞれの方々の価値観による部分が大きいだろう。

 

個人に教育の焦点が当たっていないから、時代遅れでしょうね。

 

>しかしぜひ一度、立ち止まって考えてみてほしいのだ。>こうした動きが今この時代、この国で起こっているということに目を向ける必要があるのだ 。>変化の激しい時代、多様性や自由、人権が重んじられる時代に、この動きにはやはり違和感を持たざるをえない。

 

修身は、昔ながらの発想法によるものですね。’格物致知・修身斉家・治国平天下’ ですか。

お仕着せの判断基準には、違和感を持ちますね。

 

>主権が国民になかった戦前の日本で、修身科が授業として行われたのとはわけが違う。

 

日本人には、個人的な考えがなく、判断力もないので、外部から判断基準を授けるのが適当であると考えられているのでしょうね。

話を免疫に例えれば、自然免疫のない人は獲得免疫で病気の予防をするようなことになりますね。

 

>自由と民主主義が標榜される国において、国が国民の価値に規範を示したときに起こることは、戦前のそれよりもっと悲惨だ。

 

自然免疫のない国民には、獲得免疫が必要であると、為政者は考えるのでしょうね。

国民が信用されていないことは無理もないことです。民信なくば立たず。(論語・顔淵)

 

>つまり、現代では自己の意思決定の下、自分自身も気づかないうちにコントロールされる危険性が高いのだ。

 

無哲学・能天気の国民には、危険ですね。優柔不断の状態でコントロールされますね。

 

>正解のない時代と言われ、未来に潜むリスクは個人にとっても社会にとっても挙げていけばキリがない。

 

そうですね。’考える人’ にならなくてはならないですね。そして、個人・社会のリスクを軽減して行かなければならない。

 

>それでも今日の日本では、自由と平等の下、それぞれの意思決定の先にある結果の責任は自分で取るべきであるという考えが浸透している。

 

残念ながら、日本人には意思がありませんね。それで、責任者は責任を取りません。

意思は、未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制がありませんから、日本人には未来時制がありません。それで、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。

日本人には意思がなくても、恣意がある。それで、意思決定の代わりに恣意決定をする。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は文章内容であるから、意味もある。矛盾もあれば、指摘できる。議論が可能である。

恣意は、ばらばらな単語のままで文章にはならないから、意味がない。だから、恣意による行為には、説明責任が取れない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

 

>社会構造なども踏まえて論理的に考えれば、個人の決断や行為の結果のほとんどは、さまざまな要因の影響を大きく受けている。>それにもかかわらずすべてが「自己責任」に回収される、そんな現代の状態を筆者は「自己責任化社会」と呼ぶ。

 

社会の状態が悪ければ、国民の生活も悪くなりますね。

 

(略)

 

 

.

 

 

 

 

 

 


閲覧数80 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/05/23 17:03
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