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2018年11月20日(火) 

 

 

 

>>「調べる」という言葉は、これとは反対の意味合いの言葉で、対象を遠ざかって見るという言葉だ。>>今日の歴史家は歴史と交わるという困難を避けて通っているのだよ。>>歴史という対象は客観化する事は出来ない。

>宣長は歴史研究の方法を、昔を今になぞらえ、今を昔になぞらえ知る、そのような認識、あるいは知識であると言っている。

 

昔 (非現実) は、今 (現実) ではない。今は、昔ではない。厳密に分かれますね。

 

>>厳密な理解の道ではない、慎重な模倣の道だと言うのだな。>>この方法は歴史学というものがある限り変わらない。>>変わり得ないと私は思っているよ。──「交友対談」

 

>無知と野心がなければ戦争は起きなかったか?

>昭和二一年、雑誌『近代文学』の座談会で、文芸評論家本多秋五から戦時中の姿勢を追及された小林は次のように答えた。

 

>>僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。>>黙って処した。>>それについて今は何の後悔もしていない。

 

無智では動けませんね。動けば危険です。

 

>>大事変が終った時には、必ず若(も)しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。

 

タラレバ (もしも何々であっタラ、、、、もし何々であレバ、、、、) の議論ですね。

 

>>必然というものに対する人間の復讐だ。>はかない復讐だ。

 

繰り言か。

 

>>この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。

 

この大戦争は、天災ではないでしょうね。我々の民族性にも関係がありますね。

 

>>どうも僕にはそんなお目出度(めでた)い歴史観は持てないよ。

 

日本人には、意思 (will) がないですからね。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制(tense) というものがない。だから、日本語脳には意思の表現がなく、日本人は優柔不断・意志薄弱に見える。一部の人達の無智と野心だけでは、戦争はできないでしょうね。

 

>>僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。>>僕は無智だから反省なぞしない。>>利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。──「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」

 

意思のある人間には、反省もある。反省すれば、以後の態度が変わりますね。

 

>非常に有名な言葉だが、別に小林は戦争や軍国主義を肯定したわけではない。

 

無智ではどうにもなりませんからね。

 

>歴史を後から裁断する人間の傲慢さ、みっともなさを指摘しただけである。

 

そうですね。小林は、日本人の得意技である ‘時流に乗ること’ のみっともなさを指摘しているのですね。無哲学・能天気はみっともない態度ですね。丸山真男は、政治批判をして人気を博していましたね。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

 

>史観の中に整理づけることがそもそもアホだと言ったのである。

 

史観の中の整理は、受け売りの専門家のすることですね。

 

>>こうあって欲しいという未来を理解する事も易しいし、歴史家が整理してくれた過去を理解する事も易しいが、現在というものを理解する事は、誰にもいつの時代にも大変難かしいのである。

 

そうですね。現実の判断は、難しいですね。

 

>>歴史が、どんなに秩序整然たる時代のあった事を語ってくれようとも、そのままを信じて、これを現代と比べるのはよくない事だ。>>その時代の人々は又その時代の難かしい現在を持っていたのである。>>少くとも歴史に残っている様な明敏な人々は、それぞれ、その時代の理解し難い現代性を見ていたのである。>>あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない。──「現代女性」

 

いつの時代にも、現実への対応策は難しいですね。

 

>歴史は理論では裁断できない。>封建時代というものを設定し、その時代の道徳や思想に、「封建」という言葉を冠せ、「封建道徳」「封建思想」と呼んだところで、その時代の道徳や思想はわかるものではないと小林は言う。

 

レッテルを貼るは、断罪を実行するための口実にすぎないですね。

 

>どの時代にも矛盾や混乱があったのであり、その中にそこで苦しみ、生活をしていた人々を理解しようとしなければならないと。

 

そうですね。それが人生を理解するというものですね。政治学は存在しませんね。

 

>歴史は、人類の巨大な恨みに似ていると小林は言う。>それは、われわれの愛惜の念であり、因果の鎖ではない。

 

因果応報の説教では、満足できませんね。

 

>小林は、子供に死なれた母親を例に出す。>母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではない。>そこには、かけ代えのない命が、取り返しがつかず失われてしまったという感情が伴う。

 

そうですね。それは、アニマルも同じです。

 

>望みが打ち砕かれるところに、われわれは歴史の必然を経験する。>抵抗するから、歴史の必然は現れる。

 

歴史の必然は、自然災害のようなものですか。政治・人為はどうなっているのですか。

 

>これは因果関係や史観といったものとなにも関係はない。

 

そうですね。因果関係や史観といったものは、個人の頭の中にある内容ですからね。人・人により違っています。

 

>われわれが日常生活において感じる素朴な歴史感情である。>痛みは伝達不可能だ。

 

そうですね。他人の痛みはわからない。だが、歴史は繰り返す。泣き寝入りするのですか。学んで思わざれば則ちくらし。思って学ばざれば則ちあやうし。(為政第二の十五)

感情に溺れることなく、自分の意見をもちましょう。未来社会の建設に参加しましょう。

 

 

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閲覧数643 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/11/20 02:20
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