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2019年02月23日(土) 

 

 

>非常に幼い頃から、日本の子どもたちはベストを目指して競争させられる。>幼稚園、小学校、中学、高校。>それぞれの段階は、成功するための最良の教育を受けていると見なされる。

 

最良の教育とは何ですかね。

 

>詰め込み教育(放課後に長い時間学習する)はそれらのほとんどの段階を占めている。

 

考える余地のない教育が、最良の教育ですかね。

 

>最終目標は最良の大学に入学することで、そのときすべてが変わる。

 

わが国の大学は、国際的に見て程度が低いのですが、このことを深刻に考える人はあまりいませんね。我々は、井の中の蛙たちか。

 

>学校がすべてだった数年間の後は、ついに自分の人生を謳歌し、がむしゃらに勉強する必要はなくなる。

 

我々には、生涯教育が必要ですね。

 

>日本の教育の目標は未来の日本を創造することであり、この点から言ってこのシステムは実によく成功している。

 

我々の国には、どのような未来像があるのでしょうか。

 

>日本の学生が18歳となったとき、彼らは真の日本人は日本語以外話せないということに強い確信をもつようになる。

 

序列人間として、序列社会に飼い馴らされるわけですね。

 

>nihonjinron(日本人論)や日本人のユニークさに完全にくるまれ、日本国外の事柄を無視し、彼らの今後50年の生活のためにどうすればよいか完全に精通し、ほとんどすべての認識の技術を欠き、外国人恐怖症となり、目立たず、出る杭にならないよう精神的に完全に訓練されている。

 

島国根性の完成ですね。’あるべき姿’ の喪失ですね。無哲学・能天気の状態ですね。

 

>日本の教育システムでは、いかに日本人となるかが第一のゴールとなる。>ときが経つにつれ、若者はより保守的になっていった。

 

序列人間の完成を目指しているわけですね。

 

>外国に対する興味は驚くほど欠如しており、ロボットとなる以外のいかなる望みも持たない。

 

日本人には、意思がない。意思のない人間は、他人に従うよりほかに道はありませんね。

 

>これはインターネットの情報に簡単にアクセスでき、旅行費用は安く、大部分の日本人が裕福であることを考えると不思議なことである。

 

不自由を常と思えば不足なし。個人的な発想がない。

 

>実際にはほとんど学習が行われない――生徒たちは、成功に必要な批判思考(クリティカル・シンキング)の精神をほとんど与えられない。

 

世界観を持たないから、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を個人として持っていない。だから、自己の理想を基準とした批判精神も宿らない。

 

>日本の教育制度は、ほとんどの人が高卒で工場で働くような時代にデザインされたものだ。>この種の教育は、大量生産と大量消費が経済の原動力となるような工業化された社会ではよく機能する。

 

そうですね。わが国は、ただいま深刻な人手不足に陥っている。だがしかし、頭脳不足であるという話は聞いたことがない。わが国の仕事は、頭脳労働を人手の仕事に切り替えて処理しているところがあるに違いない。資源小国のわが国が、頭脳労働を切り札として使わないのは残念なことです。

 

>しかし、世界は変化している。アイデアのクオリティや、問題解決の創造的な能力が経済世界や個人の成功を決定するようなポスト消費者主義社会へと。

 

そうですね。わが国は、昔ながらの山桜かな。

 

>いくつかの国はこのことを学習したが、日本は明らかに理解が遅く、さらに教育世界がこの現実に適応するのはさらに遅い。

 

我が国人には、意思がない。意思のないところには、方法 (仕方) がない。

現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。

非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。わかる為には、理解が必要である。

日本人の判断では、見ることのできる内容は本当のことである。見ることにできない内容は、嘘である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分自身の考えた非現実 (考え) を語ることをしない。だから、思考停止に陥っている。現実に適応するのは難しく、’生きる力’ がない。

 

>日本経済が減退していることのいくらかはこれによって説明できる。

 

我々の精神活動の低下ですね。

 

>教育問題と社会問題を混同しているかもしれないが――日本の教育システムの失敗を世界発展の観点から見ると――創造性の欠如、独創性の欠如、グローバルな領域で交流が不可能であること、世界の仕組みに関する部族的な理念(石器時代のようだ)、意思決定や方向決定に対する無能性や無意思、完全な受動性が存在する。

 

非現実 (考え) の内容を現実の中で実現させたら、それは創造力を発揮したことになる。

現実の内容を現実の中で再現させたら、それは模倣になる。特亜三国 (日本・中国・韓国) の国民は、模倣が得意で、創造が苦手である。模倣の競争は比較的容易で参入者が多く、過酷なものになりがちである。

現実の内容は、ただ一通りである。唯一の正解がある。だが、非現実 (考え) の内容は、ただ一通りではない。考えの内容は、人さまざまである。

矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。だから、正しい考えは、一通りではない。幾らでもある。

矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えになる。だから、相手と対話することは、正しい考えを得るための役に立つ。

非現実の内容を文章にするためには、時制 (tense) というものが必要である。時制がある文章は、独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。だから、人は世界観を持つにいたる。グローバル (全地球) 、ユニバーサル (全世界) の内容を持つ話が可能になる。時制は、英文法にはあるが、日本語の文法には存在しない。だから、日本人の話は、とかく小さいものになる。

日本人には意思がないので、意思決定ができない。しかし、恣意 (私意・我儘・身勝手) があるので、恣意決定をする。意思は、文章内容であるから、意味がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、意味がない。だから、恣意決定をする人は、説明責任を取ることができない。そして、とかくこの世は無責任なっている。

我々は、どこに向かうのかといったような方向を決定するためには、世界観が必要です。日本語文法には時制がなく、日本人には世界観がない。だから、無哲学・能天気のままでいます。日本人には意思がないので、能動的な行動がとれません。ですから、やむを得ず受動的な行動をとる人間になっています。

 

>特筆すべきは筆記形式の入学試験である。>このことが日本教育について何を語るだろうか。>これは学生たちに次の段階の教育へ橋渡しするために、十分な装置なのだろうか。

 

筆記が悪いわけではないが、自己のない人間が何を書いても、建設的なことが起こるわけではありませんね。だから、絶望的になります。

 

>この国の塾Jukuの必要性について対処してはどうか――だいたい、なぜ子どもたちは魂を破壊するようなところへ行かなければならないのだ。

 

全ては、処世術に従っていますね。処世術万能の世の中です。頭の中に現実しかないので、夢と希望 (未来時制の文章内容) を持つ余地がありません。

 

>学校における画一的な教育についても対処する必要がある――言いかえれば、批判精神の欠如や問題解決能力が行われていないことに対処すべきだ。

 

‘あるべき姿’ を自己の脳裏に持っていれば、それを基準にして物事の批判ができる。意思があれば、問題解決の方法 (仕方) が見つけられる。Where there’s a will, there’s a way. 無意思では、どうにもならない。

我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、時制の大切さをよく理解すべきです。さすれば、自己の意思の表現も可能になり、自己の問題解決の方法を示すことも可能になります。そして、世界の指導者になれる。

 

>現在の教育システムは、標準試験の要求に向けてすべてが調整されている。

 

そうですね。没個性的な標準人間の育成に向けてすべてが調整されていますね。反省が必要ですね。

 

 

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閲覧数505 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/02/23 05:59
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