1,558万kW/1,927万kW (03/21 08:15)
80%
2019年03月16日(土) 

 

 

>>しかし、おかしく思っても否定だけに終わっていたり、自分は関係ない(=自由=支配観念)と思って自我収束に留まっているのが現状ではないだろうか。 >このような側面もあることも考慮すると、果たして脱却に向かって前進しているのか後退しているのかは、一概には言えない。238274

 

持論を展開するのは、難しいですね。

 

>たしかにそのような感覚を多くの現代日本人は感じているとおもいます。 >特にこの数年は支配観念にしがみつく派(官僚・マスコミなどの特権階級)とその他多数の一般人の意識の乖離が大きくなっています。

 

自己利益にありつける人と、ありつけない人の意識の乖離ですね。

 

>ただ特権階級・一般人ともに共通していえるのが、しがみつく・無視する支配観念(旧観念)はもともと借り物の(西洋発の)観念という点です。

 

処世術のための道具立てですね。

 

>日本人は自分の考えをもっていない、そもそも、ものを考える・社会を考えるという経験・歴史がないというのも事実です。

 

同感です。

現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。

非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。話が分かるのには、文章の理解が必要になる。

見ることのできる内容は、本物である。本当のことである。見ることのできないものは、嘘である。

誰しも、見て来たような嘘をつく人にはなりたくない。だから、自分の考えを述べることをしない。自己の考えが、想定外になっている。これが、思考停止の状態である。かくして、日本人は、無哲学・能天気の人となる。

 

>このあたりの感覚を内田樹氏は「日本辺境論」で、「虎の威を借る狐の意見」として述べています。

>以下一部引用

> >「私たちのほとんどは、外国の人から、「日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきあと思いますか?」と訊かれても即答することができない。

 

そうですね。できませんね。

 

>(中略)

>もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけど、自分の意見は言えない。 >なぜなら、「そういうこと」を自分自身の問題としては考えたこともないから。」

 

そうですね。無哲学・能天気の人は、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を考えたことはないですからね。

 

>「そういうむずかしいこと」は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。

 

‘あるべき姿’ の内容を述べることは、世界観 (world view) を持たない人には難しいことですね。ですから、この場は ’しのぎの術’ で行くしかありません。

 

> >そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲み出した意見ではありません。 >だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。 >人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾つけて聞いた方がいい。 >これは私の経験的確信です。

 

そうですね。’妙にすっきり’ は、受け売りの作法ですね。

 

>自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。 >途中までいってから言いよどんだり、一度いっておいてから「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり・・ >そういう語り方は「本当に自分が思っていること」をいおうとじたばたしている人の特徴です。

 

そうですね。 あなたは、観察力が鋭いですね。

 

>すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません。 > >断定的であることの困った点は、「おとしどころ」を探って対話することができないということです。 >全面的に受け入れるか否定するかのどちらかしかない。

 

そうですね。教条的な人の表れですね。何せ、頼まれ仕事ですからね。

 

>このように主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。

 

そうですね。

 

>「虎の威を借る狐」は「自分ではないもの」を演じているわけですから、「私(狐)はほんとうはなにがしたいのか?」という問いかけを自分に向ける習慣を放棄しているからです。

 

そうですね。それは、演技する俳優のようなものか。自分のことは、想定外になっている。

 

> *暴走を続ける特権階級は、決められた路線(虎の思考)をただ突き進むのみ。

 

そうですね。それしかない。

 

>一般の人はそのような狐の姿に期待を封鎖し、ものを考えることを放棄している、これは現代日本の姿だし、縄文時代以降一貫して日本人はそのスタンスで社会に適応してきた・・ともいえます。

 

自己の意思を示せば、当事者・関係者になる。示さなければ、傍観者にとどまる。日本人は、孤高の人か。

 

> *また文中にある、妙に断定的なものいいより、淀みながらでも伝えようとする姿勢に人は共感し現実に動くことができるという考察は、日常の仕事場面やなんでや露店などでも実体験として多くの人が経験していることだとおもいます。 >(小沢一郎氏・田中角栄などは政治家としてはめずらしく後者のタイプのようにうつります)

 

同感です。

 

>※さてこのように「自分の意見をもたない・主張しない=すべてが借り物の思想」の日本人は今後まったく可能性がないのか?といえば、答えはNOだし、可能性を見出していくことが私たちの役割だとおもいます。

 

日本人には、つたないけれども日本流のやり方がある。

 

>そのヒントを同じく「日本辺境論」より引用します。

> >私たちは国のあるべき方向を決めるときにも、(武士道などの)師弟関係に準拠してことを行っている。

 

そうですね。 日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。日本語会話には、’上とみるか・下とみるか’ の判断は、欠かせない。その上下関係を整理して行くと、日本人の序列が出来上がる。これが、師弟関係の始まりである。序列メンタリティは、わが国のどこにでもある。

 

>それは師弟関係というものがきわめてすぐれた(おそらく考え得る最高の)「学習装置」であると日本人がどこかで信じているからです。

 

日本人は、日本語に裏付けられて序列社会を作り、序列人間になっている。

 

> >もし、ものを学ぼうとしている人に、「就いて学ぶべき師を正しく選択できるように、師たちを客観的に適正に格付けできる予備能力」を要求したらどうなるでしょう。

 

このような場合には、世俗の序列に関する相場表が役に立ちますね。 

 

>そんな予備的能力を要求されたら、私たちは一生学びはじめることができないでしょう。 >学び始めるには、「なんだかわからないけど、このひとについていこう」という覚悟が必要だからです。

 

そういうことになりますね。

 

>そしてこの予備的な考察抜きでいきなりその覚悟を持つことについては、私たち日本人はどうやら例外的な才能に恵まれている。> *自分でものを考えることが苦手な日本人は、その反動か?吸収力は格段に優れています。

 

そうですね。日本人は、恣意を働かせますね。これは、アニマルと同じです。

 

>そして、「なんだかわからないけど、このひとについていこう」という『覚悟』は縄文時代からつづく日本人の体質でもあり、物事にたいする肯定感や、充足・安心基盤に収束する気質です。

 

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂としている。かくして武士道が出来上がる。武芸の鍛練により動作の機敏な人間が育てられるが、知的判断の方はどうにもならない。

 

>これを人類史として遡れば、万物の背後に精霊を措定し、そこに期待し応えていく思考を継承したものです。

 

意思のあるところに、方法がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人間には、方法 (仕方) がない。仕方がないから、無為無策でいる。他力本願・神頼みになる。

意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制はなく、日本人は意思の表現ができない。それで、意思の内容が想定外になっている。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は文章になる。だから意味もある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままであるから、文章にならない。意味も無い。

矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。そして、考えは、一人一人違っている。だから、正解は一通りではない。幾らでもある。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を取り除くために、対話が役に立つ。議論には、意思の疎通が欠かせない。

 

>日本人の受け入れ体質の本質は、万物や自然の摂理から学びとろうとする姿勢にあるといってもよいとおもいます。

 

現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣である。 非現実 (考え) の内容を現実に実現すれば、それは創造したことになる。 特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手である。

 

>このような「学ぶ姿勢」が、本源収束を実現する基盤になるとおもいます。 

 

我々の努力が、自己実現の方向に向かうと良いですね。

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数8 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/03/16 03:39
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
のがさん
[一言]
■最近のアルバム
■最近のファイル
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このアルバムのURL
https://www.sns.ochatt.jp/blog/blog.php?key=1202156