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2019年03月27日(水) 

 

>技術が進む現代で、”使う人”自身の力(意志)がなければ、うまく機能しない。

 

そうですね。日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (will) というものがない。だから、日本語脳には未来時制はなく、日本人には意思 (will) がない。

日本人は、意思がないが、恣意 (self-will) がある。これは、言語を使わないアニマルにおいても同様である。意思は、文章になるが、恣意 (私意・我儘・身勝手) は文章にはならない。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。恣意には、意味も無い。

全ての考えは、文章になる。文章には意味がある。文章にならないものは、考えではない。文章にならないものには意味も無い。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人に意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。そこで、精神を鍛えなおす必要性を認める人も多かろう。

精神を鍛えるためには、武芸の稽古をする。この鍛錬により、動作は機敏になる。が、リーズン (理性・理由・適当) のある人間はならない。だから、精神主義には弱点がある。

意思のある人間は、責任者としての資格がある。意思の容認されない社会においては、個人の意思にも個人の恣意にもに権力を付託できず、責任者が見当たらないので社会問題の解決が難しくなる。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

 

>つまり、劣化していくばかりで、思考停止人間となってしまう。

 

日本人は、思考を停止している。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。納得するためには、その文章の理解が必要である。

見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできないことは、嘘である。誰も、見て来たような嘘をつく人間にはなりたくない。だから、自分だけの考え (非現実) は、語ることがない。これが、思考停止の状態である。何年もこのような状態でいれば、頭の中には、自分だけの考えはなくなる。そして、受け売り専門の人になる。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のような見解を述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

わが国の論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説している。だが、自分はどうであるかを言わない。自分には、考えというものがないからである。

山本七平は、自著 <ある異常体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。

、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り) 

 

 

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閲覧数767 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/03/27 13:38
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