>大島健男 ( 33 会社員 ) 15/06/23 PM08 【印刷用へ】 >「唯一絶対神」信仰発の西洋文明が、「人間が万物を支配する」という認識に拠っていたことがはっきりと顕れています。 > 月間極北 リンク より引用 > *** >■西洋列強と日本~西洋文明と日本文化(2) > 日本人は物質主義・現世主義の度が過ぎており、西洋の精神的なもの・宗教的なものがわからないし、わかろうとしない、どうもそういう印象らしい、と。
日本語は、実況放送・現状報告を内容として表現する言語ですからね。物質主義・現世主義になりますね。
> 彼らのそのような感じ方を紹介しながらぼくは、ある種の違和感をもちました。 >物質主義的なのは逆に彼ら西洋人のほうであって、精神的なものを大事にしてきたのはむしろ日本人なのではないか、という “反発” があったからだと思います。 >よくよく考えると、何をもって精神とするかの問題なのでしょう。
そうでしょうね。
>彼らには彼らの唯一神に由来する精神的価値があるように、ぼくらにはぼくらの精神的な価値があって当然です。
そうですね。 現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。楽ちんである。 非現実・考えの内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。この話を理解するためには、その文章を理解しなければならない。だから、骨が折れる。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 日本人の判断によれば、見ることのできる内容は、本当のことである。見ることのできない内容は、嘘である。誰しも ‘見て来たような嘘’ をつきたくはない。だから、自分自身の非現実 (考え) の内容は、語らない。これが、思考停止の状態である。 印欧語の文法には、時制 (tense) というものがある。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実 (考え) の三世界 (過去・現在・未来 ; 前世・現世・来世など) を示すことができる。その内容は、何処までも展開可能である。だから、学問になる。だが、日本語文法には、時制がない。だから、’いま・ここ’ の内容しか表現できない。これは、物質主義・現世主義である。自己の ‘考え’ とか ‘意思’ が反映されていない。
>そういう思いからぼくは、前々回の終わりに、とりあえず結論めいたことを、こう書きました。 >――「これはもうキリスト教という一神教の存在に尽きるのであって、彼我の違いには如何ともしがたいものがあるのではないでしょうか。>彼らは「絶対」の「一」へ向かって生きてきたのに対して、我々は「八百万の神々」「草木国土悉皆成仏」の世界に生きてきたわけですから」と。
彼らには、考えがある。考えの内容は、その文章により相手に理解される。これは言語の世界である。 我々には、考えがない。相手は、忖度 (推察) により内容を得ることになる。これは、非言語の世界である。考えと言語理解が存在しない世界である。つまり、音楽・絵画・造形美術などの芸術作品を鑑賞して自分自らが意見を述べるようなものである。理解というものが存在しない。西洋人の精神は、言語の世界にある。日本人の精神は、非言語の世界にある。彼我の違いは、如何ともしがたい。
(略) .
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