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2020年02月26日(水) 

 

 

時制のない言語を話す日本人が、自分の考え (非現実) の内容を公表しようとすれば、非常に難しいものになることが想像できる。英文で自分の考えを論文にして発表しようとする日本人の初学者は難渋する。非現実を表す構文を持たない日本語で論文を発表しようとすれば、それはほとんど絶望的で大学生は四年間をキャンパスで遊んで暮らさなくてはならなくなる。だから、国民もその困難な事情を薄々推測していて奨学金による援助も躊躇せざるを得ないのであろう。英米人は自己の哲学を組み立てる為に高等教育に進学する。だから、遊んでいられない。各人に哲学は必要である (Everyone needs a philosophy.) という国民の要求に応える励みである。その成果は歴然とする。彼らは、その成果に従って学士・修士・博士等の称号を付与される。博士の称号は大概、哲学博士 Doctor of philosophy: Ph. D.) になる。

未来時制のない日本人の発想法では、未来の内容は ‘、、、、だろう’ となる。それは、推量である。ところが英語では、(things as they would be) と自己の考えを表す構文を使うことになる。これは、過去から見た未来を表す形式で、日本語にはない形式である。このような過去の世界に身をおいて、未来を語る形式がないと、自己の世界観は表すことができない。‘だろう、だろう’ の連続では、誰もその内容を本気で受け取る気にはなれない。語る本人にも自信のないことをよく示している。

 

実験・観察の結果を過去の内容として表し、自分の考えを過去未来の内容として語れば、それは話になる。だが、日本人のように実験・観察の結果を過去 (?) で表現して、自己の解釈を ‘現実を推量する形式’ で語れば、誰も本気にしない。’Maybe, may be not.’  (そうであるかもしれない、ないかもしれない) と茶化されて終りになる。要するに、真面目な話にはならない。だから、それから先には進めない。挫折するしかない。

 

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできない内容は嘘である。正解は一つである。だから、現実は分かりやすい。

非現実 (考え) の内容は、全てが頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。幾らでもある。考えの内容を知るには、文法に従って文章を理解しなくてはならない。しかし、これは骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は理解をしない。その代わりに 忖度 (推察) をする。

 

忖度と理解は似て非なるものであるから注意を要する。忖度の内容は聞き手・読者の勝手な解釈であり、話者・執筆者に責任は無い。だから、内容の食い違いは議論にならない。歌詠みのようなものである。忖度の主に現実直視になっていないことを指摘すると、だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないかと猛反発をくらう。だから、議論にならない。’理解’ という言葉を理解してもらう前に物別れに終わる。忖度がおおてを振るって歩く姿は、目には見えない国難である。

 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

日本人の官僚の意味する ‘相互理解’ は、’相互にうなずきあう事’  (相互忖度) であって、西洋人の意味する ‘理解’  (understanding) ではない。だから、わが国の国際化は容易ではない。受験勉強では解決しない問題である。

 

 

 

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閲覧数334 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/02/26 18:05
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