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2020年05月03日(日) 

 

 

>290955 敬語と日本語①~日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつ~  >mosimobox ( 20代 鹿児島 会社員 )  14/06/05 AM00 【印刷用へ】 >以下、教育の崩壊リンクより引用します。

> ***以下引用***

> 『できる』は『可能』を表す言葉であるが、>この『できる』は、『いでくる』→『でくる』→『できる』と変化したものである。> 『「いでくる」というのは >「(内にあるもの、隠れているものなどが進み動いて)表に現れる」 > 「(なかったものが)新しく生じる。できる」(日本国語大辞典)>といった意味である。』 > (敬語日本人論 荒木博之 PHP P110)

 

何かキノコの成長を表現するような感じですね。

 

>このことは、 > 『「自然展開」「自発」的であるものが、そのまま日本人にとって「可能」となり得ているということを意味している。

 

そういうことになりますね。

 

>したがって日本人にとって何かが「可能になる」ということは、その人の主体性においてその「可能」をつかみ取るということではなく、まさに「自発」の世界と同じように「主客合一の世界においてある行為が成立する」ことなのである。』 > (同書 P112) >ここでいう『自発』とは、> 『自発的に行動しなさい』の『自発』ではなく、> 『おのずからそうなる』という意味の『自発』である。

 

そうですね。それは、‘事の次第・成り行き’ による結果ですね。

 

>この『自発』においては、その行為の『主体』(subject)性はかえって妨げになるものである。>そこでは『誰が』ではなくて『おのずと』が大切になる。

 

そうですね。それが、’事の次第・成り行き’ というものでしょうね。

 

>したがって『自発』を表現する文においては『主語』(subject)は不要であるばかりか、かえって自発本来の意味を損なうものとなる。> 可能表現の根が自発表現に発しているのはほんの一例であり、その他にもさまざまな表現がこの自発表現から発している。

 

そんな感じがいたしますね。

 

> 『(「明日来られるか来られないかはお天気次第ですね」の「れる」「られる」は本来「自発」表現だが、)> 「自発」「自然展開」をよしとする日本人の価値意識は「自発」を本意とする言葉に「価値」の意味を付与することになる。>すなわち「自発」「自然展開」的になされる行為に価値を与え、価値を付与された語によって「尊敬」をあらわすという言語史的展開が見られるようになる。> 「先生は明日来られる」に見られるように、本来「自発」を意味する「られる」によって尊敬をあらわすようになってゆくのである。』 > (同書 P120)

 

尊敬は、人間を対象としたものではありませんか。「スズメは明日来られる」の表現は成り立ちませんか。

 

>また、> 『「れる」「られる」、「できる」のような本来「自発」をあらわす言葉は、「自発」が日本人の価値意識の中核に存在している故に、それがそのまま「可能」(例「自転車に乗れるようになった」)「尊敬」をもあらわすべき契機を本来的に秘めている。』 > (同書 P122) 

 

「万引きができる (いでくる) ようになった」の表現には尊敬の念は無いでしようね。

 

>さらに、> 『「れる」「られる」に見られるような「受身」(例「雨に降られる」)の意味は「自発」とほとんど重なるようにしてある。』 > (同書 P112)> 『自発』と『受身』はそのどちらもが行為の主体性を消し去っているという点で共通している。

 

日本語には意思の表現形式がないので、主体が消し去られますね。

 

>このような特徴を持つ日本語のなかで、『主体性』を意識させ、『主語』の使用を条件づけようとすれば、日本語のもつ表現の細やかさは、大きく後退するにちがいない。 > 『自発』表現は『主客合一』『自他未分離』の状態に足場をおいた表現であり、『自我』や『主体性』や文法上の『主語』表現を嫌うものである。

 

そうですね。主語の表現を嫌うのでは、自主・独立の運動は不可能でしょうね。

 

>このように、日本語のバリエーションの多くは『自発』または『受身』を中心にしてその周囲を取りまいている。

 

そうですね。‘働きかけ・能動’ がなければ、陳述の内容は ‘自発・受け身’ になりますね。

 

>なかでも『主語』を必要としないのは『自発』のほうであり、その意味で最も特徴的な表現は『自発』であるといえる。> 日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつのである。

 

そうですね。人為を嫌いますね。盆栽・箱庭・一坪庭園など明らかに人為であっても自然とみなして喜びますね。ですから、キャンプのような手つかずの自然を楽しむ風習はありませんね。

 

 >『自発』とは、さきに見たように、『主客合一の世界においてある行為が成立すること』であり、そのことは日本人の感情の心地よい原点が、『主客合一』『自他未分離』にあることを示している。

 

そうですね。没個性の極みですね。

 

 

.

 

 

 

 

 

 


閲覧数318 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/05/03 15:02
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